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「宝石の国」

哲学的アニメの最初は、たぶんエヴァンゲリオンでしょうか。
ここ最近、この「哲学」的なアニメが増えた気がします。
「メイドインアビス」「少女終末旅行」そして表題の「宝石の国」。

「宝石の国」は、作者が好きな「宝石」と「仏教」を融合させたような物語になっているようです。

かつて人類が繁栄した地球は、6度の流星(巨大隕石?)の襲来によって、わずかな植物と昆虫とクラゲ以外は滅びてしまった世界。
しかし人間は滅びたわけではなく、魂と肉と骨にそれぞれ分かれて生き残り、進化(?)して、魂が月人と呼ばれるこの物語での「敵」に、肉は海洋生物となり「中間」的な存在に(最初は月人に攫われ、利用されて主人公達を攻撃するが、後に逃れて出てこないっぽい)、そして骨は宝石生命体(?)となった主人公達。

さて、仏教というのはキリスト教やイスラム教と違って「哲学」だと言われます。
もともと、他の宗教のように神を崇めて、神に気に入られるように生きて、死後に救ってもらおうというものではなく、「輪廻転生」という永遠の地獄のようなサイクルから、抜け出そうというものだそうです。

つまり人も、他の動植物も全ては「服」のようなものであり、本体である「魂」は永遠に不滅で、「服」を着替えるように、次々に生まれては死んでを繰り返す「生命」にまるで服を着替えるように、宿って生き続けていると。
服を着なくても生きられるようになりましょうって事なのだろうか?

私も日本人であるので、この仏教の世界観に多いに影響を受けているし、それが一番真実に近いと思っている。
が、魂が生命に宿るのは、誰かに命令されたり、何か罰のような形で囚われているわけでも、強制されているわけでもないと思っている。
魂は自ら望んで、「死」という終わりのある「生命」に宿っているのだ。
それは、ちょうど「演劇」を演じている役者と同じだ。

「演劇」は見て楽しむものだが、それが高じると、自ら「役者」として演じてみたくなるだろう。
俳優・女優の多くは、何か映画なり演劇なりを見て、自分も「演じてみたい」と思った事がきっかけで、「役者」になったと語る人が多い事からも分かる。
「魂」も、最初は「観客」だったに違いない。
永遠の時間と空間の中で繰り返される「ドラマ」を、ただ見て楽しんでいるだけであった。
だがいつしか、「ドラマ」の中に入ってみたい、見るだけでなく、そのものになって「体験」してみたいと思うようになった。
だから、「生命」に宿りはじめたのだと思う。

幼稚園の劇とかで、「木」の役とか居るように、必ずしも全員が「人間」にはなっていない。
植物になるもの、昆虫になるのも、鳥や魚になるものも居る。
そればかりか、「無機物」に宿ったものも居るかもしれない。

日本には「万物に魂が宿っている」という考え方があるが、それは結構正しいと思う。

もちろん地球上だけでは無いだろう。
他の宇宙や惑星にも「生命」と呼べるものがあるだろうし、「生命」ではない「無機物」にも時間と共に動いたり変化したりという「ドラマ」を持っているものは存在する。
そもそも地球だって、宇宙の始まりからあったわけではないし、また宇宙の終わりまで今の状態で存在はしない事は、現代の科学でも分かっている。
星は今でも生まれ続け、そして死滅し続けている。
そういう意味では「地球」自体も「生命」と言えるだろう。

こういったドラマをただ見ているだけの「魂」という永遠不滅の「意識」のある存在が、暇をもてあました結果のひとつが、地球上の「生命」に宿るという事だと思っている。
従って、生まれ変わるのはいつでも止められるはずだ。
「ドラマ」をよりリアルに「体験」するために、あえて「なぜ生きているのか?」「なぜ死ぬのか?」の答えを意図的に忘れているのだ。
死んで魂の状態になると、全ての事が分かると言う説もあるが、これもあながち間違いでは無いのだろう。
舞台を降りて観客席に戻れば、物語全体を見渡せるわけだから。

さて、これらの事から「宝石の国」を見ると、「魂」が「祈り」によって浄化するというのは、無理がある。
祈ろうが何しようが、魂は消えないわけで、「ドラマ」は地球上だけで起こっているわけでなく、宇宙全体にいくつもあるわけで、別に「地球」にこだわる必要も、「人間」にこだわる必要もない。
もし仮に「宝石の国」のように、地球が何らかの要因で壊れてしまっても、別の場所の別の物語を楽しめば良いだけである。
それこそ、地球外生命体に宿るもよし、または観客にもどって、しばらく宇宙の様子を眺めるでもよし。

「人間」だった頃に囚われる事などあり得ない。
というか、じゃあ「人間」以外の生命だった魂はなぜ出てこない?
それらはどこへ行ってしまったのか?
なぜ「人間」だけが、他と特別に違うなどと言い切れるのか?

着ている服の色やサイズやデザインが違うだけで、中身はみな同じなのだ。
人間も犬も猫も植物も虫も魚も、あるいは惑星など「無機物」の塊であるものも、全て中に宿っている魂は同じである。
大きさも力も能力もすべて同じ。
また、この「魂」というのはもともともは「空間」や「時間」を作った「神」そのものである。
自分が作った物語を、自ら演じてみたくなった「神」が分裂して「魂」となっただけで、もともとはひとつ。
あなたも私も、すべてはひとつの存在なのだ。

私は更に分裂する事もできるし、あなたと融合することもできる。
分裂しても融合しても、「わたし」の意識は消えないし、あなたの意識も消えない。

人間の脳では理解できないが、「魂」というのはそういう存在なのだ。
「時間」にも「空間」にも終わりは無いし、始まりも無い。
すべてが繋がっている。
人間の「脳」で考えられるのはここまでだ。

ファミコンでスーパーコンピュータのAIを動かすのが不可能なのと同じだ。
人間はファミコンであり、魂はスーパーコンピュータのAIより更に高位の能力を持った存在だからだ。

前世は必ず時間的な「過去」とは限らないし、来世は必ず時間的な「未来」とは限らない。
人間であるとも限らないし、犬や猫や植物だったかもしれないし、次はそうなるかもしれない。
あるいは地球上の「生命」であるとも限らない。
それがこの世界だ。

という考えを持っているので、、「宝石の国」は物語としては面白いと思うし、アニメ化された映像も素晴らしいと思うが、どこか小ささを感じてしまう。
これは他の「哲学系」のアニメも同じだが、どこか単純さや、狭さや、そういうものを感じてしまうのであった。

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