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少女終末旅行にみる人類の終末観

今期のアニメの中に「少女終末旅行」というのがある。
最近流行のWeb漫画が原作のものらしい。
1話を見てみたが、なかなか面白そうでもあり、ウツになりそうでもある。

アニメを見ると、主人公である少女2人以外は登場しないので、人類は滅亡したように見えるが、ウィキで作品の紹介を見ると、原作の方では彼女ら以外に2人の「人間」と出会っているらしい。
まぁどちらにしろ、絶望的な世界には変わらないがw

さて、人類の未来を描いた作品というのは漫画にしろ小説にしろ映画にしろ、いろいろ存在する。
これらには大きく分けて2つある。

1つは人類は結局宇宙へ進出する事もできず、戦争や地球規模の自然災害などで地球上でゆるやかに滅亡していくというもの。
もう1つは、無限に広がる宇宙空間へ、ある程度自由に飛び出す事が可能なレベルまで科学を発展させる事に成功し、争いは絶えないものの、まだ当分の間は滅亡なんぞと無縁であるというもの。

有名なSF映画の「猿の惑星」や「マトリクス」、日本の人気漫画・アニメである「北斗の拳」などが前者だろうか。
後者は「ガンダム」シリーズや「銀河英雄伝説」や、あるいは「スター・ウォーズ」を未来の世界と考えれば当てはまるだろう。
なお「スター・ウォーズ」は設定的には遥か昔の話らしいが。

現代の人類の状況を見る限りでは、割と絶望的に描かれる未来の方が現実的に思える。
リアル嗜好の強い欧米の作品に、そういったものが多いのも人類が本能的に感じている、もっとも可能性の高い未来だからだろう。
対して、ものすごい科学技術の発展により、地球という狭い場所を離れ、宇宙を人類の生活の場とすることで、明るい未来像を示す作品は日本の方が多いように感じる。

いずれにせよ、どちらの未来が現実になっても、私は特に恐怖も絶望も、あるいは夢も希望もそれほど感じない。
というのは、今までオカルト的な話題で述べてきたように、不滅の魂を持ち、永遠に物語の世界に生きるのが、この世界の本当の姿、自己の本当の姿だと思っているからだ。
たとえ人類が滅亡しようとも、地球上の生命が全て全滅しようとも、あるいは地球や太陽が無くなってしまうような世界になろうとも、自己の本体である魂は永遠に存在し続けられるからだ。
つまり、死や終わりといった事に対する恐怖は現実的では無いと考えている。
私が恐怖するのは、むしろ「永遠」という言葉だ。

人類は不老不死を昔から求めてきたが、ではいざ不老不死になったらどうだろうと考えた時に、絶望しか感じないと思う。
漫画やアニメやゲームに登場する、不老不死の敵は読者やプレイヤーや主人公にとって絶望を与える一方で、不老不死の敵も、また自身に絶望している。
人気漫画であるジョジョに出てきた不老不死となった敵の大ボス(?)は、最後は無限の宇宙空間へ追放される事で人類の脅威から切り離されたが、無限の宇宙空間を永遠に彷徨うという事に絶望し、「考えるのを止めた」で終わっている。

つまり、我々が本当に恐怖を感じるのは、古来より多くの人間が求めてきた「不老不死」そのものにあるのではないかと。
死ぬことよりも、死ねないことの方が遥かに怖い、ということだ。
有限よりも無限の方が、はるかに怖い。

その本能的な恐怖が、終末思想や人類滅亡というバッドエンドの未来物語を多く作らせていると思う。
そういう予測をする事で、ワクチンのように恐怖をやわらげる、耐性をつけようとしているのではなく、永遠に存在し続けるという「恐怖」を避けるための、ハッピーエンドの物語なのだ。

もし本当に前世・現世・来世というものがあるなら、あるいは超古代文明のように、人類は今まで何度も滅びかけている、今の人類は第○世代の人類・文明であるという思想が的を射ているとしたら、生まれ変わる度にそれまでの記憶や経験や実績を失ってしまうのは、「永遠」を忘れるためではないかと。
「永遠」に耐えられなくなった存在が、仮初の「有限」の中に逃げ込んでいるだけなのではないかと。
そう考えると、なぜ生き物は死ぬために生まれるのか?という疑問も解決すると思う。
なぜ「前世」の記憶が無いのかも、説明がつく。
「無限」という「現実」を忘れるため、考えないようにするため、その恐怖から逃れるためだ。

少女終末旅行という、一見すると最初から絶望しかない物語に惹かれるのも、そういう理由かも知れない。

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