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人を人たらしめているのは何か?

一方的な差別利権側の主張ばかり垂れ流すNHKを見て一言。

知的障害者の大量殺傷事件についてのニュースでした。

さてまず、「人間」とは何か?
「人間」とその他の「動物」との違いはどこにあるのか?
それを述べたいと思います。

人間というのは、地球上の全生命の頂点に立つかのように思い、振舞っていますが、実際のところ肉体面では最弱の部類に入ります。
その最弱の人類が、なぜ頂点に立てたのか?

それは人類が唯一、この地球上で最も優れた部分である「知能」によるものです。
目が見えなくても、耳が聞こえなくても、手足が無かったり動かなかったりしても、「知能」さえまともであれば、それは「人間」と呼んでも差し支えないわけです。

しかしながら、人の形はしているが、知能が人間を遥かに下回った場合、はたしてそれは「人間」と言えるのか?
というところが、この事件の最大の問題であり、差別利権者側が決して触れない最大のタブーなのです。
犯人はこのタブーに一石投じたというのが、彼の言い分でしょう。
もちろん、その方法が「殺ろす」という形を取った事に賛同はできませんが。

たとえば障碍者でなくとも、知能の発達が未熟であるとされる子供は、何か事件などを起こしても、大人と同じ刑罰が課せられる事はありません。
大人でも精神状態がまともではなかった場合は、減刑されたり無罪になったりしますよね?
知的障碍者は問答無用で減刑および無罪です。
これのどこが平等なのでしょうか?

大人並の体力を持ち、しかも知的障害があるため、「火事場の馬鹿力」と言われるものがいつでも出せる、リミッターが掛からない人も居ます。
そういう人に襲われたり、レイプされたり、ケガを負わされた場合、「知的障碍者だから」という理由で罪に問われない、何の罰もないというのが、本当に平等かって話です。

子供や精神薄弱で責任能力無しとされた大人の犯罪者も、減刑や無罪になる事はありますが、その分人権が制限されています。
鉄格子のはまった病院から一生出られないとか、子供であれば犯罪をおかさなくとも、例えば選挙権が無いとか、お酒やタバコを嗜む権利が無いとか、いろいろありますよね?
あるいは子供が仮に殺人をした場合、損害賠償などの責任を親が負う事になります。

大人の知的障碍者の場合は、そういうのも無いでしょう。

NHKの馬鹿アナウンサーが「なぜこういう差別思想が出てきてしまったのでしょうか?」などと言ってますが、一目瞭然です。
健常者が、一般人が、障碍者とその愉快な仲間に逆差別を受け続けてきたからですよw

そもそもこの世に「完璧」な人間なんて居ないのですよ。
健常者だって、自分の好きなように何でもできたり生きられたりしないわけです。
健常者ができる事は、すべてできるようにサポートして然るべきという間違った考えが、逆差別に繋がっているとなぜ理解できないのでしょうか?

健常者と同等の権利を求めながら、一方で犯罪とかの時は、「知的障害があるのだから仕方ないじゃないか」で優遇されようとする。
それがおかしいと言っているのです。

善悪の区別や人間社会の常識が理解できない人間は、知的障害が無くても人間失格です。
重大な犯罪をするやつなんてのは、どっかおかしいんですよ。
それを知的障害だの精神薄弱だので、減刑したり無罪にしたりするのをいい加減止めるべきでしょう。

これが「平等」に扱うという事です。
もちろん、目が見えない、耳が聞こえない、手足が無い場合は、健常者よりも出来る事が限られてくるし、それによる経済的な不利が発生するのは事実です。
ですから、そこを補助するような制度までは否定しません。
ただ「平等」に扱えというなら、「責任」も平等に持つべきです。

権利だけ要求して、義務や責任は免除しろというのは、真の平等とは言えないのです。

犬を飼う場合、必ず首輪付けて紐などでつなぎ止めるでしょう。
猫だって家の中に閉じ込めておくか、野良猫の場合は去勢されたりします。
これについて「差別」だと言う人は居ません。
なぜなら、犬や猫は人間社会のルールを理解できる「知能」を持っていないからです。
それを無理やり人間社会の中で暮らさせようとしたら、紐で繋いだり去勢したりするしか無いからです。

同じような事が知的障碍者にも言えるのです。
別に紐で繋いでおけとか、去勢しろとか言ってるわけじゃないです。
知的障害でも軽度であれば、ある程度の人間社会のルールは理解できるし、他人に迷惑を掛けずに生きていく事もできます。
しかし重度の、特にパワー系などと言われる知的障害者は、「人間」として扱うべきでは無いと考えます。
なぜなら、人を人たらしめている「知能」が絶対的に欠けているものは、たとえ人の形をしていても人とは呼べないからです。
酷い言い方のようですが、事実です。
それは違うという感情論ではなく、理論的に反論できる人が居たら、どうぞ反論してみて下さい。

親というのはどんなにがんばっても、子供より先に死にます。
犬や猫などのペットと違い、最後まで責任もって面倒を見る事はできません。

つまり本当に子供の幸せを望むなら、差別するなと喚くのではなく、最後まで責任を持って面倒を見られる社会や国の制度を作らせる事の方をすべきなのです。
事件や事故を起こさせず、他人に極力迷惑を掛けさせないように生きさせるには、どうしたら良いかを考えるべきなのです。

これは障碍者全般に言える事ですが、特に知的障碍者に関しては変にタブー視せずに、真剣に考えるべきです。

人は生まれながらに不平等であり、不自由なものです。
健常者といえども、全員が食うに困らない生活ができるわけじゃないですし、全員が望んだ職業につけるわけでもありません。

障碍者だからといって、殺されたり檻に閉じ込められたりしなくなった分、人類は進歩したのです。
しかしそれを、勘違いして障碍者は優遇されるべきと考えるのは間違いです。

健常者だけが責任や負担を大きく背負うような状態は、平等であるとは言えません。
いかに人類が平等に負担を負い、平等に生活できるかを考えるべきです。
差別といえば、何でも通る、どんな意見も封殺できる。
それがおかしいのです。

本当に差別をなくしたいなら、そこをまず考えるべきでしょう。

義務や責任を負えない人は、権利がその分制限されるのは「差別」でも「不平等」でもないという事を、いい加減学びましょう。

神から与えられた、誰にも犯す事の出来ない「基本的人権」なんてものは無いのです。
本当に神から与えら得た権利なら、この世に犯罪被害者などというものは出てこないはずなのです。
人間が勝手に考えて、人間の力で維持しているのが、「人権」なのですよ。

「人権」を維持するための負担や責任は、「人権」という恩恵にあずかれる全ての人間が等しく負うべきなのです。

そういった本当の意味での「平等」というものを、人類が理解すれば、差別利権などと言われるてめーらが優遇される事を望むだけ、自分のお仲間以外を差別する、いわゆる「逆差別」というものも、出てこなくなるでしょう。

知的障碍者に施設の職員が暴力を振るえば、当然罪に問われます。
しかし施設の職員が、知的障碍者に暴力を振るわれても、知的障碍者が罪に問われる事はありません。
そういうのを体験した事で、この犯人は、結果的に障碍者を差別する事で、真の平等を得ようとしたとも言えます。
それが殺人という形になってしまったのは、許されざる事ではありますし、擁護も致しませんが。

同じ過ちを起こしたくなければ、この矛盾をどうするのかを真剣にみなで考えるべきです。
差別しか言わないアホどもに、そう強く言いたいわけです。

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