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相撲はボクシングとかとは違う

民事賠償請求がこじれて、裁判にまでもつれ込む元横綱 日馬富士と貴乃岩の問題。

まず根本的に「相撲」に対する考えの違いが、モンゴル人力士と日本人の間にあるように思う。

「相撲」というのは、ボクシングなどのような格闘技とは違うというのが分かってない。
ボクシングは真剣勝負であり、それこそ本気では言ってないし言葉のあやかもしれないが、「相手を殺す気でいけ」みたいな事だって言われるし言う事もある。
そして言葉通りに、わざとではないにしろ相手が死亡するケースだってあるわけだ。

だが相撲はそうじゃない。
「相手を殺す気」でやったらだめで、むしろその逆で「決して相手を傷つけない」うえで勝負に勝つという非常に難しいものだ。

土俵際で追い詰められた力士が、ふっと諦めたように力を抜いたり、あるいは土俵際まで押し込んだ力士が、最後のひとつきを手加減したかのように見える取り組みというのは珍しくない。
見る人によっては「八百長じゃね?」と思われるようなこういった場面は、「相撲」だからこそ起こるのだ。
土俵際で無理に粘れば、下に落ちて怪我をするかもしれない。
しかも粘っている自分を無理に押し出そうとしている相手も一緒に落ちるわけで、相手も怪我をする可能性が高い。
だから、もうほとんど勝負はついたと思った瞬間に、それ以上の抵抗や追撃をしないのだ。
なぜなら相撲は相手をとことんまで叩きのめす事が許容される、そのぐらいの気持ちでやるべきと考えられているその他の格闘スポーツとは「違う」からだ。

白鵬が土俵下まで相手をすごい勢いで突き落として、「見たか、三下がwww」みたいにドヤ顔で相手を見下す場面とかあるが、あれはボクシングとかプロレスであれば当然あって当たり前だし、その方が盛り上がるが、相撲では絶対にやってはいけない事なのだ。
その辺の認識の差が、今回の暴行事件と損害賠償請求の金額の差にそのまま出ているのだ。

貴乃岩は、貴乃花という伝統的な相撲に拘る古いタイプの価値観の親方の部屋に入ってしまった。
よって、「相撲とはこういうものだ」というのを徹底的に教育されたのだろう。
だからモンゴル人力士同士で、星のやり取りをしていたとも言われる集まりを良しとせず、相撲を格闘技だと思って「相手を殺す気で」戦うモンゴル人力士上位陣のやり方に迎合しなかった。
その事によって目をつけられて、いわば集団リンチのような形で「締められた」と見るのが妥当だろう。

日馬富士側からしたら、日本人力士は「殺す気」で戦うべき敵であるが、同じモンゴル出身の力士は部屋は違えど、異国の地で厳しい実力勝負の世界で生きる「仲間」である。
従って、日本人力士と同様の戦い方をして、同じモンゴル人力士を怪我させて休場させたりするのは望まない。
そうならないよう、あらかじめ話し合ってある程度勝負を申し合わせておこうよって。
お前が怪我してダメにならないために、お前のために言ってやってるのに聞かない。
お前一人の自分勝手な価値観のせいで、他のモンゴル人力士が怪我するかもしれないんだ。
だからそれを分からせるために、集団で呼び出して殴ってでも分からせようとした。
お前が憎くてやってるわけじゃない。
お前のためを思ってやった事なんだぞ。

恐らくこういう思考だろう。
体罰なんかも、よく同じ思考で行われるし、殴ってでも相手のために言動を正さなければならない場面ってのは、私はあると思うし否定はしない。
しかし今回の「愛のムチ」は、前提条件がまず間違っているのだよ。
相撲が他の格闘技スポーツと同じものならば、日馬富士側の言い分は正しいし貴乃岩は逆ギレと言われても仕方ない。
しかし「相撲」においては、日馬富士側の考えがまず根本的に間違っているのだ。
モンゴル人力士の「相撲とはなんぞや」の考えが、根本的に間違っているのだ。
それを正さない他の親方衆は情けないとしか言いようがないが、一方でモンゴル人力士の活躍あってこその今の大相撲の満員御礼であり、強く言えないというのもあるのだろう。

それに親方という立場から立ち向かって、敗れて辞めざるをえなくなったのが貴乃花というわけだ。
しかし現役力士である貴乃岩は、まだ負けてはいない。
そもそも貴乃岩が他のモンゴル人力士と「相撲」に対する考え方が同じであれば、暴行事件に発展するまで反発しないだろうし、ましてや貴乃花が辞職して、親方の相撲に対する考えに気を使う必要もなくなった。
にも関わらず、裁判にもつれ込むまで徹底的に妥協しなかったのは、やはり本気で貴乃花の相撲に対する考え方、日本人が思う相撲の姿に賛同しているのだろうと思う。

相撲協会は昔と違って公益法人となった。
だが公益法人のスポーツ協会になったからといって、他の格闘スポーツと同じように、戦う場合は相手を殺す気でやりなさないなんて事は求められてない。
あくまで運営方針などを、現代の法律や価値観に合わせなさいよってだけだ。
そこを勘違いして、モンゴル人力士の相撲に対する考え方に賛同するのか擁護するのかの立場を取る。
そんなんであれば、相撲を国技と言ったり、神事なんですよなんて偉そうに語るのは止めて欲しい。
勝ち負けだけを求める、世界的な「スポーツ」になってしまった柔道なんかと同じく、単なる発祥国の競技団体であると改めるべきであろう。

本来、日本の相撲・柔道・剣道・空手などは、世界的に思われてる格闘技やスポーツではない。
これらの競技には、後ろに「道」という文字を付けて言われる事が多い。
柔道や剣道は、その競技名自体に「道」という言葉が入っているが、「相撲道」や「空手道」などという言い方もあるわけで。
この「道」が付くのは、日本発祥のこれらの競技が、単なる格闘スポーツでない事の証拠であり象徴でもある。

ちなみに野球という欧米生まれの競技でありながら、日本に深く根付いた「野球」なんかも「野球道」として日本風にアレンジされている。
「高校野球」とか、海外の野球関係者から見ればあり得ないルールや価値観が沢山あるが、それは海外の考える「野球」から、日本独自に改変された「野球道」になってしまったからなのだ。
他の「武道」と同じく、単に体を鍛え、技を磨き、勝つ事だけを求める「競技」ではなくなってしまったのだよ。
最近ではあまり見ないが、高校野球の選手はみな「丸坊主」にしなきゃいけないみたいな風潮も、そのためだ。
「頭を丸める」というのは、日本においては仏教などからくる宗教的な価値観に基づいている。
すなわち「髪の毛」を「煩悩」という悪いモノとして捉え、それをそぎ落とす事で精神的に「綺麗」な状態になるというもの。
つまり「精神性」が求められるのが、日本の「道」の付く競技と他の「スポーツ」の違いなのだ。
相手をただ単にボコれば良いのではない。
相手を思いやり、品行方正さなど競技とは別の面での、人間的な質の高さみたいなものも求められる。
強さと高い倫理観を持った、いわゆる善人である事が日本の「道」競技を行うもの、極めんとする者には求められるのだ。
だから「横綱」は、決して格下の相手を叩きのめすような事はしてはいけない。
むしろ、殺す気で行う格闘技と勘違いしてるような後輩が居たら、それを諫めなければならないのだ。
ところが、モンゴル人力士達は逆の事をやってしまった。
番付では日馬富士の方が貴乃岩より上だったかも知れないが、相撲においての格は貴乃岩の方が上だったという事だ。

このような事態を招いたのは、相撲に対する間違った考え方を持つモンゴル人力士と、それを容認してきた相撲協会である。
相撲協会は、相撲を伝統的な「武道」として扱うなら、モンゴル人力士の考え方を再教育すべき。
相撲を「スポーツ」として運営していくなら、神事であった頃の伝統なんて一切捨てるべき。
わざわざ昔の衣装を着た行司もやめて、プロレスやボクシングの審判のようにすべきだし、「国技館」などという名前も止めて、単なる相撲競技場にすべき。

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