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植松被告が正論を言っているという話題

相模原の「知的」障碍者の施設での大量殺人の罪に問われている、有名な植松被告。
彼の言い分が正論ではないか?というのが、おそらく某有名掲示板で議論されていたらしく、そのまとめサイトでもコメントで更に議論がされていたので。

どうも植松被告は、自分が殺した知的障害者は「人間」ではなく、ペットの犬や猫と同じであり、従って「殺人罪」ではなく、他人のペットを殺した時と同じ「器物破損」として扱うべきだと言ってるらしい。

さて、実は私も「知的障碍者」は「人間」として扱うべきではないと思っている。
冷たい・薄情・人の心がない精神異常者と思われるかも知れないが、障碍者の権利を主張するアホどもと違い、その理由を理論的に説明できる。

まずそもそも「殺人」が違法なのは、「人間」がそう決めたからである。
「人権」というのも、人間が勝手に作ったものである。
神から与えられた、誰にも犯すことのできない権利 などとアホな事を言ってた教師も居たが、ではなぜ神から与えられたものを、犯せる人間が居るんだとw
本当に神から与えられた、誰にも犯すことのできない権利であるなら、本当に誰も犯せないはずだ。
殺人事件や窃盗事件なんて、起こるはずがないのだよ。
でも実際は起こるし、その犯人を捕まえたり、処罰したりするのも「人間」がやっている。
そもそも捕まらなければ、処罰される事すらない。

これが「人権」なんてもんは、「人間が勝手に作ったもの」である証拠。

次に「人権」というのは、無条件に与えられるものではない。
「人権」とは、法律を守るという「義務」を果たしてこそ、与えられるものである。
だから違法行為をすれば、警察に捕まって「人権」の一部である自由な言動を制限されるし、刑務所に入れられて強制労働という、人権侵害とも取れる事をされるわけだ。

つまり「人権」は「法律を守る」という「義務」を果たしてない、果せない奴には「無い」のだよ。

この「人権」というのは、言葉通り「人間」だけのものである。
「犬権」だの「猫権」だの「猿権」だのってのは無いw
いくらペットの犬は、うちの家族だと言ったって、それを他人に殺されたり傷つけられたりしても、「殺人」や「傷害」にはならない。
「器物破損」になるだけだ。

つまり「人権」というのは、「法律を守る」という義務が果せる「人間」にのみ与えられるものと解釈できる。
「人間」の姿形をしていても、「法律を守る」という義務が果せないどころか、理解すらできない者は、「人権」を主張する資格は無いのだよ。
良くてペットと同じ、誰かの「所有物」であり、むやみに他人に害されないという扱いをされるぐらいの権利があるだけ。

極論を言えば、人間の言葉を解し、法律を理解してそれを守るならば、例え人間でなく、サルだったとしても「人権」が与えられるべきなのだ。
その一方で、人間の姿形をしていても、知能に障害があって「法律」を「理解」したり「守る」事ができないなら、サル」と同じ扱いをされるべきという事だ。

知的障碍者をひとくくりに、「動物」として扱えとか言ってるわけではない。
少なくとも最低限の人間社会の「決まり」を理解し、守れるなら「人権」は保障されるべきだ。
しかしそれすらかなわないような、重度の障害がある場合は「人間」として扱うべきではないのだ。
当然、「知能」は普通だが、目が見えない、耳が聞こえない、手足が無いあるいは不自由という障碍者は「人間」であるし、「人権」も保障されなければならない。

「権利」というのは、自分が所属する「群れ」の「決まり」を守るからこそ与えられるものというの、スルーしたり見ないようにしたりしてる奴が多すぎる。
会社と雇用契約を結び、会社の与えた仕事をします、会社のルールに従います、社外に情報を漏らしたりしませんとか、そういうものを「守る」から、部外者以外は入れない会社の建物に入れたり、あるいはICチップを埋め込んだ社員証などを与えられて、それでゲートとか部屋のセキュリティロックを「ピッ」ってやって解除して入れる権利が与えられるのだ。
「人権」というのは、いわば「国民」が「国」とそういう「契約」をして与えられているものでもある。
だから紛争地域なんぞに行って、人権をいくら主張してもテロ組織に捕まって殺されたりするわけだw

これらの事から、法律を理解し守れるだけの「知能」が備わっていないものは、「人間」ではなく「動物」であると定義されるべきという植松被告の主張は正しいと言える。

しかし一方で、それが「人間」であろうが「動物」であろうが、「むやみに殺してはいけません」という法律がある以上、それを守らなかったわけだから、刑罰は受けるべきである。
彼は別の形でこの主張をすべきだったのだ。
人なのか動物なのか、「生き物」を殺す事で、それを主張すべきではなかった。

人間は「群れ」でないと生きられない、弱い「動物」である。
人間以外の「群れ」でないと生きられない「動物」も、例えば毛の色が違う突然変異なのか障害なのかの個体を、いじめて群れから追い出す事は珍しくない。
この行為を「野蛮」であると言えるだろうか?
他の個体と毛色が大幅に違えば、外敵の標的になりやすい。
当然、その個体の近くに居る他のメンバーは、毛色が同じ仲間の側に居るより危険度が増すわけだ。
誰も近くに居たくない、そもそもそいつが居る事で群れの危険度が上がるとなれば、追い出すのは当然であろう。
冷たいとか野蛮とか、そういう問題ではないのだよ。
「群れ」というのは、大勢集まることでターゲットを分散したり、数の暴力で敵に応戦し、やられないようにするためのものである。
そういった「群れ」の本来の性質に合わないもの、乱すものは追い出されて当然であろう。

人間社会というのも、「群れ」である。
「群れ」のメンバーには、他のメンバーと協力する「義務」がある。
それは法律を守る事だったり、他のメンバーを殺したり傷つけたり、あるいは所有物を強奪しない事だったり、兵役なんかも実はそうなのだ。
それでも一部の権力者の都合によって、そのルールが決められていた時代であれば、それを守らなかったり反抗したりしても、支持はされたであろう。
しかし現代の日本における法律をはじめとした「ルール」というのは、一部の権力者が、てめーだけが得をするために、てめーの都合の良いように作ったものではない。
「いや、俺は日本の法律の作成なんかに一切関わってないし、それに賛同した覚えも無い」というアホも居るだろうが、「選挙」でその意思表示はしているわけだよ。
選挙に行かないのは勝手だし、野党の支持者であっても、民主主義という多数決で物事を決める体制の日本国に居る以上は、たとえ自分の意にそぐわない結果でも、従う「義務」がある。
嫌なら別の国に行けって話。

何度も言うが、今まで述べてきた理由や理屈から、法律を理解できない、守れない奴は、「人間」として扱われるべきでないし、「人権」なんて主張できないのだよ。
知的障碍者だから、精神異常者だから、「無罪」とか「減刑」なんてのは、あってはならないのだ。
それは、独裁者や貴族の「特権」と同じ、不平等で許されない「ルール」である。

しかしだからといって、破ってよい事にはならない。
「法律」がおかしい、間違っていると思うなら、賛同者を得て、選挙で当選して国会議員などになって、さらに国会で法律を改正させるのが、現代の日本の人間社会、民主主義体制での正しいやり方なのだ。

彼の主張を犯罪者のたわごとして封じ込める、間違った考えだと民衆を洗脳するような、糞メディアや団体と、正しいやり方をせずに、違法行為でそれを主張した彼とは、どちらも同じ種類の「クズ」なのだ。

この悲劇を繰り返したくないなら、根本的におかしい、「人間」の基準を満たしてないものも、姿形が人間ってだけで「人間」扱いしなければならない、今の法律を変えるべきであるし、少なくとも真剣に「議論」されるべきなのだ。

糞メディアや障碍者団体のやってるように、感情的に封じ込めるような事をしていれば、第二第三の植松被告が現れてもおかしくないだの。

てめーが人権を尊重する良い人間、障碍者とかそういう弱者にも優しい聖人であると見られたいとか、そういう糞みたいな自己顕示欲や自己満足で、この問題を封殺すべきではない。
その影で、植松被告のように、違法な手段に訴えてでも世の中の認識を変えようとするまでに追い詰められる奴が生まれるのだよ。
死刑制度は非人道的であり、人権に反するから、死刑判決が出そうな裁判には、弁護士として出頭せずに裁判を妨害しますとか、そんなのがまかり通るのと同じぐらいに、おかしいし、そういう奴らがやってる事は、基本的に植松被告と同じだということ。

人間はロボットではない。
だから感情論が出てくるのも否定はしない。
だが、感情論で動いて良いものと、そうでないものが世の中には、人間社会にはあるって事。
そもそも感情論で述べても、おかしい仕組みであろう。
お前らのかわいい娘がレイプされたが、犯人が知的障碍者だったので無罪になりましたって、それを植松のいう事は間違ってるとか言うやつ等は、納得できるのかよって。
感情論で言ったって、結局のところおかしい、納得できないのに変わりはないだろw

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