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旧日本海軍の仕官だった祖父の話

私はまだ左翼全盛期の戦後の昭和に学校教育を受けた。
私自身は幸いにも、自衛隊や旧日本軍の遺族までも罵倒するような基地外教師には出会わなかったが、それでも戦時中の日本は極悪非道で、戦後産まれの我々もアジアの人々に迷惑を掛けたのだから、殴られようが罵倒されようが一切反論せず、黙って頭を下げ続けなければならないという教育がなされていた。

そんな中で育った私は、疑問を持ちながらもそれが正しいのだろう、仕方ないと諦めていた。

まぁそれはネット全盛期の現代において、必ずしも正しくない、一方的な洗脳とも言えるものだったのは判明する事になるのだが。

さて、私の母方の祖父は、海軍兵学校卒業のエリート仕官だった。
とはいっても祖父の実家は名家でもなんでない、どちらかと言えば貧しい農家だった。
その貧しい農家だった祖父が、貧しさから脱するために当時一番適していた軍人を選んだのだ。
祖父は鹿児島出身で、鹿児島には西郷隆盛の時代より前から地元の金持ちが貧しいけど優秀な人物をサポートし、良い大学などに通わせる制度というか風習があった。
たしか祖父もそれのおかげで、貧農の子息でありながら海軍兵学校という当時一流の入るのさえ難しかった学校へ行く事ができたと聞いた。
不幸中の幸いとでも言おうか、祖父は日本の敗戦が濃厚になった頃に結核を煩い、休職して自宅療養をしていたため、戦死は免れた。
しかし裁判所に連行はされなかったものの、海軍の仕官であったために「公職追放」という刑罰を科せられ、戦後の厳しい時期に働く事ができなかった。
祖母は大きな醤油問屋のお嬢様で、普通なら貧農の息子となんぞ結婚はできなかったのだが、祖父が海軍士官という当時の人々の憧れの地位も名誉もある職業に就いていたため結婚したそうだ。
そんなわけで、空襲で醤油問屋だった実家も失い、嫁入りのときにわずかに持ってきたのであろう着物などを売り捌いて終戦直後は働けない祖父に代わり、一生懸命家族を支えたそうだ。
まぁそんな事と昭和後期の左翼全盛期の軍人は全員悪逆非道との差別などもあり、肩身の狭い思いをしていたであろう祖父。
祖母は祖父より先に逝ってしまったのだが、いよいよ祖父も若いときに煩った結核により、片肺がダメな状態でなんとか生きていたのが歳のせいでそれも危なくなり、入退院を繰り返すようになった頃、見舞いに行った私に言った話。

海軍兵学校を出たエリートということで、はだしのゲンでいう予科練なのかな、そんな学校の教師をしていた事があるらしい。
戦後にその学校の教え子にソニーの創始者が居る事を知ったそうだ。
自分が直接教えたのかどうかは定かではないが、戦後いろいろ悪く言われ、肩身が狭かったが、戦後の日本の復興に大いに役に立った人材を育てたのが自分だったかもしれないと知って、大いに慰められたというか満足したという。
そんな話を珍しく1時間以上も掛けて話してくれた。
その話を最後に、祖父はなくなった。

話を聞いた当時は、単に祖父の最後ぐらい優しくしてあげようぐらいの気持ちで「へー、すごいね、良かったね」みたいに聞いてあげてたみたいな感じだった。
この話をした祖父の気持ちが本当に分かるのは、ネット全盛期になって自分が漠然と感じてた戦後の左翼どもの洗脳に対する違和感の正体がはっきりしたのと、歳を重ねて人の気持ち、人生とは何か、人は何のために生きるのかという哲学や悟りのようなものを考えるようになってからである。

墓はあるが、恐らく靖国に行ったであろう祖父は、別にそれら左翼や反日基地外どもを恨みはしていないと思う。
ただ自分が戦時中にしていた事は決して無駄ではなかったという満足感を持って、逝ったのだと思う次第。

戦争は悪いことだし、しないに越した事はない。
別に先の戦争で日本は悪くなかったと言うつもりもない。
だが当時を生きた人々を貶したりするような事はすべきではないと思う。
国を、家族を守るために戦って死んだ人たちには、やはり敬意を持つべきと思う。
靖国参拝を否定する人には、それらを早く理解してほしいと思う。

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