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ヒジャブを被っている事を理由に不採用、差別だ

馬鹿ですか?

人類社会には、法律をはじめ、伝統・モラル・マナーなど様々な「これをやってはいけない」という決まりがあります。
イスラム教の「女性はヒジャブを被らなければならない」というもの、そのひとつに過ぎません。

これら法律や伝統やモラルやマナーや宗教の教義というのは、神様が人間にそうしなさいと言ったわけでもなければ、独裁者が多くの人間の反対を押し切って、勝手に決めたものではありません。
そういうものも、中には存在するでしょうが、基本的に独裁国家の法律でもない限りは、多くの人間の支持を得たからこそ、法律として制定され、あるいは伝統やモラルやマナーといった明文化されていないけど、長年残っているわけです。

このような物が出来たのには理由もあります。
人間の価値観というのは千差万別で、誰一人として全ての価値観が他の誰かと一致する人など居ません。
「価値観」というと難しいかもしれませんが、簡単に言えば「俺はこうされるのが嫌だ」「俺はこうするのが好きだ」「俺はこうしたい」
「俺はこうしたくない」という「好き・嫌い」です。
当たり前ですが、それが人によっては正反対である事も珍しくありません。
思想・信条の自由と言いますが、全員の「好き・嫌い」を認めてしまったら、そこかしこで喧嘩ですよ。
何も物事が先に進みませんよ。

ここまでの理屈は、宗教や民族に関わらず理解できると思うし、確かにそうだと思っていただけると思います。

さて、このままでは人類社会は崩壊してしまいます。
だから法律や伝統やモラルやマナーや宗教の教義というものが出来たのです。
より多くの人が「好き」と思う事を善とし、より多くの人が「嫌い」と思う事を悪として、それらをやってよい事、やったらダメな事として決めたのです。
そして、それを明文化してより分かりやすく示し、その集団に属するものは全員例外なく守る事、納得できるものだけが所属することとしたのが、国や会社や民族や宗教の法律であったり教義であったりするわけです。
明文化はされていないが、自然とそうなっていったものが、伝統やモラルやマナーでしょうか。

どちらにしろ、自分の好きな事を守るためには、自分の嫌いな事をされないためには、全員がそれらのうちどれかを我慢しなければなりません。
より多くの人が我慢しないで済むよう、より少ない我慢で済むようになっているんですよ、法律だの伝統だのモラルだのマナーだの宗教の教義だのっては。
特にそれに属する人達にとっては。

だから思想・信条の自由だ、言論の自由だ、信教の自由だ言ったって、完全に自由ではないのです、実は。
日本ではこれら自由の保障の規定には、必ず「公共の福祉に反しない限り」という但し書きがあります。
法律の学者や弁護士や裁判官などの法律の専門家などでなくても、日本人であれば義務教育で習うので、誰でも「公共の福祉に反しない限り」という文章は見た事があるはずです。
この「公共の福祉」というのは、言い換えれば法律や伝統やモラルやマナーや、あるいは「常識」とも言えるでしょうか。
そういう物に反する事を、俺の自由だと言ってやるのは認められませんと言ってるんですよ。

さてここで件のヒジャブについて。
イスラム教の教義ではヒジャブを被らなければならないとなっていますが、それはあくまでイスラム教の信者となった人が守るべき決まりです。
イスラム教徒で無い人に守る義務はありませんし、そのような法律もありませんし、伝統もモラルもマナーもありません。
つまり日本において、ヒジャブを被る事をイスラム教徒でない人に強制したら、「信教の自由の侵害」になります。
ここまでいいですかね?
では「俺はヒジャブが好きではないので、俺の前で被るな」と言ったら「信教の自由の侵害」になるでしょうか?
答えはなりません。
その理屈はこうです。
日本には法律にはもちろんですが、伝統やモラルやマナーといった明文化されていない決まりや常識の中に「ヒジャブを被らなければならない」というものも「他人がヒジャブを被ってるのを止めさせてはならない」というものもないからです。
つまり「公共の福祉」に反しないわけです。
ヒジャブが嫌いだという好みを、誰にも止める権利は無いし、ヒジャブを認めろと強制されない自由が保障されているということになります。

恐らく接客業でしょうが、日本では伝統的に被り物をして、顔を見せずに相手と話をしたりするのは、失礼とされています。
ですから、接客業では客が不快に思わないよう、失礼が無いように、被り物をして接客をしてはいけないという規則があるのです。
この規則は違法でもなんでもありません。
「公共の福祉」に反してないので、そんな規則は無くせと強制する事もできません。
むしろ「被り物をして接客してはいけません」という違法でもなんでもない規則を、無くせと「強制」したら、逆に「自由の侵害」です。
ヒジャブを被っている事を理由に不採用というのは、「信教の自由」の侵害にも当たらないし、違法でもない。
ヒジャブを被っていても接客できるように規則を変更しろと強制する方が、日本人に価値観を変えろと言ってる事も同義ですから、「思想・信条の自由」の侵害です。
多くの日本人が不快だ、失礼だと感じる被り物をしての接客。
それを認めろと、多数派である日本人に対して、少数派であるイスラム教徒、しかも日本人ですらない、強制的に日本に連れてこられて住まわされてるわけでも、働かされてるわけでもない人が言うのは、一方的な価値観の押し付け、強制です。
日本人に嫌だと思う事を、少数派の外国人のために我慢しろと言ってるのも同じです。

宗教差別になりうるとしたら、「イスラム教徒だから雇えません」と言ったり、そういう規則があったりする場合でしょう。
これは立派な「信教の自由」の侵害です。
なぜなら、どの宗教を信じるかは、個人の心の中だけで済む問題だからです。
イスラム教を信仰したら、他の非イスラム教の日本人が息苦しくなったり、気持ち悪くなったり、頭痛やめまいがしたり、そういう実害が一切ありません。
なぜなら、人の心の中というのは見る事ができないからです。

しかしいくら教義とはいえ、ヒジャブ着用で接客をしたら、少なからず不快に思う日本人が居ます。
それは日本人の価値観に反する事ですし、心の中で思っている事と違って、はっきり目で見えてしまうからです。
あそこは失礼な店員が居るという評判が立ち、店の売り上げが落ちるという実害が出るわけですよ。
それをなぜ我慢しなければならないのですか?って話です。
ヒジャブを着用してその辺を歩く。
これも目に見える行為ですが、日本人はそれだけで不快感は感じません。
単なるファッションとしてしか見ないからです、日本人的価値観で言えば。
それでもイスラム教徒が世界各地でテロ行為を起こし、その映像の中にヒジャブを被った女性がテロ組織側の人間として映ったりしたら、不快に感じる人も出てくるかも知れません。
この人はテロリストかもと恐怖を覚えるようになるかもしれません。
それが日本人の大多数の価値観になってしまったら、ヒジャブ着用で歩く事すらできなくなる可能性もあるのです。
なぜなら、より多くの人が「嫌い」な事が「悪」として法やモラルやマナーや伝統しての禁止事項になるからです。

そうならないためには、私たちは非イスラムの日本人に危害を加えたり、法律や規則を破ったり、価値観を押し付けたりしませんという姿勢を見せなければならないのです。
なぜイスラム教徒側がそんな努力をしなければならないのか?
それは日本においては少数派だからです。
人間社会は多数派の価値観が「善」であり、少数派の価値観は「善」にはならないからです。
それをしてしまったら、より多くの人間が我慢を強いられ、少数の人間だけが我慢をしないですむという、いわばこれは中世までの絶対君主制や、あるいは現代の独裁など、否定されている、「悪」とされている政治形態と同じになるからです。
というか、独裁そのものです。
この少数が多数に我慢を強いる、価値観を強制できるというのはおかしい、悪い事だとなったので、多くの国で民主主義が採用されるようになったのです。
多くの国の法律で様々な権利や自由の保障が明文化されるようになったのです。
人権などという言葉が生まれたのです。
差別はいけないというのも、実はこの一環なのですよ。
少数の王様や貴族の方が、多数の農民や庶民より偉い。
これらの身分制度は自分の努力ではなく、単に王族に生まれた、貴族の家に生まれたというだけで、多数派である農民や庶民が「それでいいですよ」と言ったわけでもないのに、勝手にそう決まってる。
だからこれら自分の努力で変えられないもの、多数派の意見に沿わない一方的な身分制度を「差別」と呼び「悪」と認定されるようになったのです。
それがどんどん拡大して行って、本来とは異なる使い方で、自分の主義・主張を一方的に、法律も既存の価値観やモラルも無視して通せる便利な言葉として使われるようになってしまったのです。

もう一度言います。
ヒジャブ着用を理由に雇用されないのは差別でも何でもありません。
単なるあなたの「我がまま」です。
嫌なら国に帰ってください。
ここは日本です。
日本人の価値観が「善」であり、イスラム教徒の価値観は必ずしも「善」ではないのです。
なぜ少数派であり、しかも日本人ですらないあなたのために、多くの日本人が我慢を強いられなければならないのですか?
そういう姿勢が、せっかく世界的に見てもイスラム教に寛容な日本を欧米と同じく「嫌悪感」を抱く国にさせてしまう事がなぜ分からないのですか?
そもそもイスラム教を日本で信仰する事自体を禁じられたわけではないでしょう?
このような自己中な主張を繰り返せば、最悪の場合、日本ではイスラム教が禁止されますよ?
というか欧米では既にそういう動きが出てますよね?

日本はわざわざ手間とお金を掛けて、つまり多数派である日本人が我慢や損をして、観光客として来てもらうためとはいえ、礼拝施設を用意してあげたり、ハラールの食事を用意してあげたりしてるわけですよ。
それをイスラム教の教義が日本では「善」として扱われ、それに反するものは「悪」として扱ってくれるんだなんて勝手に思ってもらっては困ります。
日本においてはイスラム教やイスラムの教義は「悪」ではありませんが、「善」でもないんです。
そこを勘違いされないよう。
そしてその勘違いと押し付けが、今は「悪」でないイスラム教そのものを「悪」に変えてしまう危険性があるという事を、心に留めておくべきです。
特に日本に住むのであれば、日本の価値観とイスラム教の教義が対立した場合は、あなたがたイスラム教徒が「我慢」をすべきです、「損」を受け入れるべきです。
それが嫌なら祖国に帰るか、他のイスラム教の教義を完全に「善」として扱い、それに反するものは「悪」として矯正したり変えたり弾圧したり押し付けるのが許される国に移住すべきです。

少数派の主義・主張を通したいなら、一方的に多数派に「お前らの考えは間違ってる、変えろ」というのではなく、「私たちの考えはこんなに素晴らしいし、理にかなっているんですよ」と丁寧に、押し付けにならないよう十分配慮して、何度も根気強く「説明」をして理解と賛同を得るべきです。
それが本当に良いものであれば、日本人は受け入れます。
そうやって日本人は、先祖代々歩んできたわけです。
漢字は中国の文字ですし、農業より工業を重視した方が国は発展するし、強くなれるという西洋の思想を取り入れて、先進国になったわけです。
イスラム教が、本当に日本人に「これは良いものだ」と思われれば、ヒジャブ着用での接客も認めるべきという意見が多数派になるでしょうし、ヒジャブ着用を理由に不採用にしてはならないという法律もできるかもしれません。

それができないなら、帰れ。
これは在日どもも同じ。
野党やマスゴミも同じ。
以上。


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