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死を怖がる暇があるなら

最近、ネットで「まだ20代なのに癌で余命を宣告された」とか「婆ちゃんが死ぬの嫌だって言ってる」とか、そういうのを立て続けに読んだので。

「死」というのは、どんなに怖がっても嫌がっても絶望しても、逃れる事はできません。
現代に至るまで、全ての人間が、金持ちであろうが貧乏人であろうが、聖人であろうが大悪党であろうが、絶世の美女であろうが超絶なキモデブだろうが、みな等しく死んでいったのです。
科学技術や医療が飛躍的に発展して、大昔には考えられなかったような長さまで寿命が延び、治らなかった病気が治るようになりましたが、「死」だけは克服できていません。
大昔の王様よりはるかに強大な、世界的な権力や財産を持つ人も居ますが、そういう人達も死から逃れられていません。

つまり「死」に怯えたり怖がったりしても、無駄なのです。
そんな事を考えてる暇があったら、残り少ない人生でやりたい事をできるだけ沢山やった方が遥かにマシでしょう。

いくら健康な人や若い人を妬んでも、どうせいずれそういった人達も死ぬのです。
寿命が20~30年だった人と、100歳まで生きた人で、後者の方が幸せだったか、満足できたかと言えば、必ずしもそんな事はないでしょう。
長生きしたって、体が言う事をきかなくなるばかりか、日常的にどっかが痛いとか目が霞むとか耳が聞こえないとか、不自由さや不快さが増します。
そんな状態で何十年も生き続けなければならないぐらいなら、まだ体が十分健康である年齢で、ぽっくり逝ってしまった方が楽かもしれません。

とは言うものの、これを自殺の理由にされても困りますがw

死に対する恐怖が、まったくの無駄だと言っているわけではありません。
「死ぬ気になって」という言葉があるように、死に対する恐怖をバネに、ものすごくがんばったり、すごい力を出せたりする事もありますから。
「命がけで」という言葉もありますね。
これらはみな「死」が怖い、死にたくない事が前提になっています。
それが他人に対して発揮された場合、自らの命を犠牲にするのも厭わない場合もありますが、それは例えば親が子を守るためなど、自分より他の誰かの「死」の方が恐怖であり嫌であるがためであり、根本的には「死」への抵抗という意味において同じです。

何が無駄なのかと言うと、「死」の恐怖に怯えて、何もしない事です。
そればかり考えて、時間を無駄に過ごす事です。

座間の殺人事件のように、死の恐怖を利用されて、結局殺されてしまうのを見ても、それがいかに無駄で良くない結果しかもたらさないか分かるでしょう。

「死」の恐怖に怯えるなら、それを別の力に変えるべきなのです。
人はなぜ働くのか?
食うためです。
なぜ食うのか?
食わないと死んじゃうからです。

あなた一人だけが、「死」が怖いわけではないのです。
みな多かれ少なかれ「死」の恐怖に怯えながら、日々暮らしているのです。
死にたくないから働き、死にたくないから戦争やテロに反対するのです。
スラム街の子供達は、死にたくないから窃盗や殺人をするのです。
ヤクザも死にたくないから、拳銃だの刃物だのを不法に所持するのです。
死にたくないから、誰かをいじめ、見て見ぬ振りをするのです。

できれば他人に迷惑の掛からない事へ、「死」の恐怖に抗うためのエネルギーが行ってくれた方が良いのですがね。
どうせ死ぬんだからと、犯罪をされても困りますw
そうじゃない事へ、思考を転換し、それこそ「死ぬ気」で残りの人生を送った方がずっと有意義ですよという話です。

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