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生き残る

人間も含めて、この地球に存在する全ての生命の行動原理は「生き残る」ためだ。
「進化」というのも、生き残るために行われるもの。
この「生き残る」という神に課された使命とでも言うべきものは、何のためかと言えば子孫を残すためだ。
不老不死の生命というのは、無いのだから、子孫を残さなければ種が絶滅してしまう。
もっとも一部のクラゲなどは不老不死なのではないかと言われているが。

なので自分の子供が出来ると、自分が「生き残る」から自分の子供を「生き残らせる」に行動指針が変わる。
自分の「命」より子供の「命」を守る事が優先される。
この世でもっとも強い愛情というのは、親が子に対して向けるものなのも、そのためだ。
ちなみに親子愛というのは、子が親を思う気持ちも含まれるが、その度合いは圧倒的に親から子への方が強力。
なぜなら親が子に向ける愛情は、子供を生き残らせるという本能から来ているのに対して、子から親への愛は、親が居ないと生き残れないという、自分自身の為のものから来ているからだ。
つまり自分の力である程度「生き残る」事が可能な大人になるにつれて、親の必要度というのは低下するわけだw
ましてや結婚して子供が出来たら、自分も子供の命の方が大事になるわけであって、親の面倒を見る事で子供の命が危険になるなんて事はあってはならないのだ。
だから姥捨て山というのがあったのだ。
親は自分の子供が大人になっても、子供の命が一番なのは一生変わらない。
年老いた自分のせいで子供の命が危険、具体的には食料が足りないとか、そういう事態になった場合に、子供を生き残らせるために、自ら命を捨てる行動に出ても、何ら不思議ではない。
姥捨て山というのは、食い扶持を減らすための非人道的な風習を老人に強制したものであるかのように思われるが、実は違うのである。

女人禁制という場所。
おんなこども というのは弱者の典型としての言葉である。
生き残る力が大人の男性より弱い「おんなこども」を生き残らせるために、危険だけれど行かなければならない事がある場所、行けてしまう場所を、神様などの宗教的な理由をダシにして「女人禁制」というルールを作って守ったのだ。
差別利権や逆差別が目的のアホどもが、「女人禁制」を「男尊女卑」の証拠として騒ぐが、まったくの間違いなのだ。
もちろん、昔より科学技術が発達して、「女人禁制」というルールが作られた当時より遥かに安全になった現代において、それらはもはや時代遅れの無意味な風習であるから、廃止しても良いのではないか?という理屈ならば、私も賛同する。

相撲の土俵に女性が上がれないというのも、そもそも今ほど医療が発達・充実してない時代は、命を落とす事だってあり得た相撲という危険なスポーツを、女性にやらせたくないという考えから来ていると私は思っている。
だからそれを男尊女卑の象徴として叩く連中には賛同できないのだ。
これが、昔はそういう理由があったかもしれないが、現代では医療のレベルも昔とは段違いであり、それほどの危険は無い。
事実、女性で相撲を楽しむ人だって居るわけだし、そういう観点から女人禁制にしておく必要はもう無いのでは?という理屈で、女人禁制を解こうと主張するのであれば、反対する人も少なくなったと思う。

このように、全ての法律・習慣・伝統・マナー等々の「決まり」のようなものには、差別なんぞ本来は無かったはずなのだ。
差別というのがなぜ悪とされるかというと、それをしなくても生き残れるのに、不必要に生き残れない人間を作るから悪なのだ。
それをする事で、生き残れない人間が出ないのであれば、それは差別でも何でもないのである。

自分が生き残るためや、生き残れない人を生き残れるようにするために行うのが、本来のそういった自由だの平等だの人権だのの運動であるべきなのだ。
しかし現在のそれらは、自分が生き残るためでも、生き残れない人が生き残れるようにするためではない。
自分や一部の人間が、「優遇」されるためである事が多い。
「優遇」というのは、金であったり力であったりを生き残る以上に求める行為とも言い換えられ、ひとえに「欲望」によるものである。
だから支持されないのだw
人が持ってよい「欲望」というのは、「生き残る」事だけである。
なぜならそれ以外の欲望を実現させようとすると、生き残れない人が出てくるからだ。
当然、それら生き残れない人間から反発を食らう。
ましてや自分は絶対にどんな状況でも生き残れるなんて自信を持てる人間なんて居ないのだ。
だから「生き残る」以外の「欲望」に対して、人間は拒絶反応を起こす。
これが、今の左翼どもが支持されなくなった理由である。

自由だの平等だの人権だのを訴える連中も、それが自分が生き残るためであれば、支持してくれる人はもっと多いと思う。
自分が生き残る、あるいはそのネタにしている「弱者」と称される人々が生き残るための運動ではなく、自分がそれによて金なのか力なのか、何か生き残る以外の「欲望」に基づくものであるから、支持されないのだ。

この世の「善悪」などというものは、所詮は人間の都合で生み出されたものであり、神様が決めたものではないのだよ。
神様というものが本当に居て、人間に求めている事があるとしたら、それは「生き残る」事だけなのだよ。
「生き残る」ための行動であれば、たとえそれが人間の倫理観において「悪」とされるものであっても天罰は下らない。
「生き残る」ための行動でなければ、たとえそれが人間の倫理観において「善」であっても、神様は評価してくれないのだよw
憎まれっ子世にはばかる のはそのためだw
いくら熱心にお祈りしようが、厳格に戒律を守ろうが、必ずしも天寿を全うできるとは限らないのもそのため。
なぜなら、お祈りや戒律を守る事は、「生き残る」ための行動ではないからだ。
お祈りは別として、宗教の教義や戒律の中には、それが作られた当時は「生き残る」ために必要だった事も含まれる。
しかし現代においては、それを守らなくても「生き残れ」るのだ。
だからいくら熱心にそれらを守っても、神様はそれを評価してその人間を守ってくれたりしないのだw

日曜の礼拝に来ていた熱心な信者が、皮肉にも協会でイスラムテロで多数死傷したなんてニュースもあったが、そういう目に逢うのも、その時にGODが守ってくれなかったのも、全ては「生き残る」ために必要な行動ではなかったからだよw

宗教が不要だとは言わない。
それが無いと心の平静を保てずに、「生き残れ」ない人も居るからだ。
しかしそれを利用して、自分が「生き残る」以外の欲望に基づく行動をするような人間が沢山居る。
だから日本人は「宗教」=「インチキ」とか「胡散臭い」ものとして忌避するのだ。
神社で初詣を行い、教会で結婚式を挙げ、寺に死後の世話をお願いするような事をしていても、「自分は無宗教です」と答えるのだw

体罰が躾なのか虐待なのか、その境界線はどこにあるのか?
それは子供が生き残れるようにするためなのかどうかで判断できるのだよ。
体罰と称して、暴力で子供が死んでしまうようなものは、躾でも何でもない。
子供の命に危険はないし、障害が残るような事も無いが、ちょっと痛い。
でもそれは痛い思いをしてでもわかって貰わないと、子供が将来生き残れない。
そういう類のものは、躾であって誰にも批判される謂れは無いのだよ。
この理屈がわかってないから、いつまでたっても体罰は善か悪かの論争が続くのだ。

この世の全ての生命は「生き残る」事が行動の原理である。
物事の善悪などというものは、所詮は人間がてめーの都合で決めた屁理屈である。
よって物事を「正しい」か「間違い」か「支持」するのか「反対」するのかは、全て自分が生き残るために、自分の子供が生き残るために「必要」なのか「不要」なのかで判断すれば良いし、それこそが神が(本当に存在すればであるがw)人間に求めている事なのである。

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