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愛情が沸かない子が居るのはなぜか?

修羅場だが懺悔だかのまとめサイトで見た話に、こんなのがあった。
お金持ちだが子供が居ない親戚夫婦に、裕福ではないが子供が3人も居る投稿主が、その子供のうちの一人を養子に出した。
切欠は、親戚の集まりのたびに小梨(子供が居ない事のネットスラングのようです)夫婦が、3人も居るんだから一人うちの子にならない?と子供達に言っていたため。
もちろん小梨親戚金持ち夫婦も、3人子持ち投稿主夫婦も、祖父母もお決まりの冗談で挨拶のようなもんだと認識していたと。

ところが子供3人のうちの一人が、ある時にその金持ち小梨親戚夫婦の養子になると、本気で言い出したらしい。
何度あれは冗談だとか、そんな事を言ってはいけないと注意しても聞かず、ずーっと言い続け、それに実母である投稿主の心がついに折れてしまい、養子に出したと。
自分の腹を痛めて産んだわが子であるはずなのに、もう何の愛情も沸かなくなったと。

さて、この話を読んで思った事は、親というのは必ずしも子に無償の愛を注げるものでは無いという事だ。

まず親が子に無償の愛を注ぐのは、ひとえに人間も含めてすべての生き物の究極の目的は、自分の遺伝子を後世に残す事だからだ。
よって子ができるまで、あるいは自分が子であるうちは、たとえ親や兄弟であっても自分が生き残るのに障害になると思えば、切り捨てる。
しかし親になった瞬間から、今度は自分が生き残るためではなく、自分の遺伝子を継ぐわが子が生き残るために全力を尽くすようになるのである。
だから自分の命を犠牲にしてでも、子供を守ろうなんて事ができるわけだ。

しかしこれには、実は罠がある。
自分の遺伝子を継ぐものは、最低でも1固体だけ生き残れば良いという事。
人間以外の動物を見れば分かるが、生涯に1匹しか子供を産まないものは、恐らく居ない。
なぜなら、自分の遺伝子を継ぐ存在が残る確率が、それだと非常に低くなるからだ。
だから弱い生き物ほど、一度に沢山の卵だの子供だのを産んだりするわけだ。

人間は地球上の全生命の頂点に居るわけだが、それでも事故や病気などで大人になる前に死んでしまう子供は居る。
今より医療が発達してなかった時代は、日本でも兄弟は5人とか6人とか居るのが当たり前だった。
なぜなら、そうしないと家が途絶えてしまう可能性があったからだ。
しかし現代の日本は、よほどの事が無い限り大人になる前に死んでしまう子供というのは、少ない。
一人っ子が多くなったのは、そういった環境による必然でもあるのだ。
なにせ子供は一人でも育てるのは大変だ。
金が掛かるのはもちろん、それ以外にも精神的にも肉体的にも、ものすごく消耗するわけで。
それこそ命がけなんだから、当たり前だがw

つまり、一人居れば十分なのに2人も3人も子供が居たら、どれかに愛情が偏るのは当然なのだよ。
一番優秀な子、生き残れそうな子を本能的に優遇するのは、当たり前なのだよ。
それは野生の鳥の子育てでも見られるだろ?
人間は、「理性」でそれらを「間違った行い」と無理やり思い込んで、無理やりどの子にも同じように愛情を注ぐ振りをしてるにすぎないのだ。
だから兄弟格差のある家庭が出てくる。
私も幼少の頃に、同級生にそういう家庭があったのを見てきている。
特に正確に問題がありそうな、いわゆる毒親とかDQNとか言われるような両親でないにも関わらず、妹ばかり優遇して、姉は飯もロクに食わせてもらえず、学校で友達の弁当を盗み食いしたり、服もボロボロだったり。

「理性」が足りなかったり、精神が弱かったりすると、必然的に一番「生き残れそうな」子だけにしか愛情を注げなくなるのだよ。
人間なんて、自分たちが思うほど強くもなければ、能力が高いわけでもない。
注げる愛情の量には限りがある。
ましてや自分の命はひとつしか無いわけで、2人も3人も居たら全員に命を掛けるなんてできないでしょ?w

もっとわかりやすく言えば、兄弟のうち誰か一人が車に轢かれそうになって、それこそ命がけで守った結果、自分が死んでしまったら、他の兄弟が同じ目にあった時に、物理的にもう守れないわけですよ、だって死んじゃってるわけですからw
もちろんその子も守れませんが、親に命がけで守ってもらったという最大の愛情は、どうがんばっても、もう他の子には注げないわけですよw

だから必然的に、一番生き残れそうな子に愛情が偏る。
理性でもって、何とかそうならないよう、ある程度の努力はできます。
しかし完璧にそれをこなせる人間など、居ないです。

そして子供というのは親が思う以上に、そういうものには敏感です。
私の育った環境も、貧乏なくせに3人も兄弟が居やがったので、随分と不満はありましたよ。
もちろん、誰かに愛情が偏らないように、周りの親と比べても非常に厳格に努力していた事は分かってますし、感謝もしてますけどね。

投稿主は、血が繋がってない義理の子供ならともかく、自分の腹を痛めて産んだ正真正銘のわが子なのに、いくら子供の心ない言動が精神的に折れるまで続けられたとはいえ、それで子供に何の愛情も沸かなくなった自分の非情さをずっと嘆いているわけです。
ですが、それは生物学的な観点から言えば、当たり前であり非情でもなんでもない。
非情だと自分を責めるのは、人間が「理性」で作った価値観のせいであって、それは神様から言われた絶対的でも何でもないものに囚われているからだと思ったのです。
いわゆる「道徳」とか、そういうものですね。
もちろん「道徳」を否定する気はありませんが、それで悩み苦しみ、自分の人生、ひいては捨てられなかった他の兄弟にもそれが影響してしまうぐらいなら、所詮は人間が自分たちの都合で勝手に作った「道徳」による思い込みなんだと考えて、少しでも楽になった方が良いのでは?と思ったからです。
本能的に切り捨てた子の事を、いつまでも気にして、本能的に守ろうと思った他の兄弟に愛情を注ぎ切れなかったり、守れなかったりしたら、それこそ生物として失格だし本末転倒ですよって事です。

「理性」こそが、人間特有の、人間を他の生物と一線を画す能力のひとつであるのは確かです。
しかし逆に「理性」のせいで、生物本来の「生き残る」という最大の目標と、逆のことをしてしまうのもまた事実です。

いじめ自殺は、この「理性」のせいで起こると私は思います。
いじめを止めさせる方法というのは、モラルだの法律だのを「無視」すれば、いくらでもあるし誰にでもできるんですよ。
それこそいじめてるやつらを、全員殺してしまえば良いわけですから。
でもそれは「理性」が許さない。
自分が殺人犯になるのはともかく、まったく関係ない親なども殺人犯の親族として迷惑を掛ける事になる。
だからいじめを終わらせるために、自分が死ぬという間違った選択をせざるをえなくなるのです。
「理性」が無ければ、そんな結論には至らないでしょうって事です。

話が逸れましたが、人間はどんなにがんばっても「本能」からは逃れられないのです。
また「理性」は必ずしも人間を正しい結論に導くとも限らないのです。

つまり「過ぎたるは 及ばざるが如し」って事ですよ。
理性など一切無視して本能のままに生きるのは、もちろん間違いです。
ですが本能を殺して理性だけで生きるのも、また間違いだと言いたいのです。

理性はほどほどに働かせ、本能を押さえるのもほどほどにすべきという事です。
それが人間が人間としての形を保ちながら、生命としての「生き残る」という目標を狂わせなくて済む一番の正しい生き方だと言いたいのです。



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