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ニートだから見えるもの

ニートも長年やってると、いろいろ考える事があります。
俺の人生は何だったのか?何のために生まれたのか?なぜ生きているのか?

こんな事は、毎日家族を養うために必死で働いてる人は考えないでしょう、というか考える暇なんて無いでしょうw
別に家族が居なくても、家がそんなに裕福じゃないとか母子家庭で高校卒業してからすぐ働かなければならなかった、そうしないと生きられなかったって人とかもそうだと思います。

さて、仏教の開祖と言えばゴーダマ・シッタールダ、通称「ブッダ」と言われている方ですね。
「ブッダ」というのは、「悟りを開いた人」という意味でもありますが、なぜこの方が悟りを開けたのか、今ならわかります。
ニートだったからですw

仏教関係者には怒られそうですが、よーく考えてみてください。
厳しい修行にしろ、心やすらぐ環境での瞑想にしろ、どれもこれも1円の金にもならないんですよ。
働いてないんですよ、彼は。
もともと王族で、汗水垂らして必死に働いて、それでも毎日食うものに困るような出自ではないわけです。

今も一部でそうですが、修行僧というのは1円のお金も稼いでません。
人間が働くのは食っていくためです。
金が無ければ食えません。
だから修行僧は、托鉢という、まわ悪い言い方をすれば「物乞い」で食いつないでるわけですよ。
まぁニートよりかは動いているとは言えるかもしれませんが。

つまり必死に働いてたら、悟りなんて開けないんですよw

これがニートだから見えるものがある という根拠です。

ブラック企業で自殺するまで働かされる人が、なぜ死ぬ前に仕事辞めないのか?
そういう考えが、出てこないんですよw
いじめ自殺も同じです。

まともに働いたり学業に励んでる人には、悟りが開けないのの、もっと酷いバージョンが自殺に追い込まれる人達なんです。
ゆっくり「考える」暇を与えない。
これが辞めさせずに低賃金でこき使うブラック企業の、基本的な手法です。
いじめも、自殺するまでいじめられる奴ってのは、いじめられる側の個人差はありますが、いじめる側が上手いんですよ、言い方は悪いですが。
「逃げる」とか「誰かに助けを求める」とか考える暇を与えない、あるいはそういう手段を封じるなど、巧妙だって事ですね。

世の中には「常識」が無いと言われる人達が沢山居ます。
虐待などされて育った人は、どこかしら常識がズレてたりします。
あるいはそれほど酷くなく、なんとか大学までおかしな家庭環境のまま卒業できた人とかも、どこかしらおかしい。
あるいは、兄弟が居て、自分はターゲットにならなかった、むしろ一緒に虐待する側だった人なんかも、当然歪みます。

そういう人達は、当たり前ですが悟りなんて開けませんw

人が悟りを開くには、何か必死にしなければならない事が無く、考える暇が沢山あり、なおかつ食う事に困らない状況が必要だということです。

人間だけが、「文化」を持てたのは、単に知能が高かったからだけではありません。
他の動物のように、24時間365日、生きるのに必死にならなくて済んだからです。
つまり「暇」があったからです、他の動物よりも圧倒的に長時間の。
その暇な時間のおかげで、生きるのに必ずしも必要ではない、絵を描いたり歌をうたったり、あるいは神に祈ったりみたいな、「文化」を持つようになったんですよ。

そして、この「何もしなくても良い時間」が多ければ多いほど、人は哲学的な事を考える、誰にも洗脳されたり強制されたりしない、真に自由で第三者的視点を持って、物事を見つめなおせるのです。

座禅というのは、ブッダの悟りを開く方法にならって行われる仏教の修行のひとつです。
座禅はいま海外の人にも、ストレス解消法として人気らしいです。
座禅というのは、「何も考えないで、じっと座って居る事」ですが、実は「何もしなくても良い時間を過ごす事」でもあるんですよ。
そうすることで、日々の様々な洗脳や強制から逃れて、自由を得る。
だから開放感とかストレス解消の効果があるのです。

学校であれ会社であれ、あるいは専業主婦でさえも、まともに家事や近所付き合いとかしてれば、いろんな束縛や強制や洗脳が入ります。
なので完璧に「常識」を持つ人など居ません。
みなどこかしら「非常識」であるはずなのです。
その度合いが、大きいか小さいかなのです。

そもそも「常識」とは何か?
理論的な思考をすれば、こうすべき、これが正しいと思える事が出来る、言える事です。
「非常識」というのは、理論的におかしい事を言ったりやったりする人の事を言いますから、その逆が「常識」なので当たり前ですねw
理論的な思考ができるには、誰にも影響も洗脳も束縛も強制もされてない、真に自由な状態が必要なんですよ。

世界三大宗教が誕生してから、ずいぶん経ちます。
でもそれ以降、新たな大宗教となるものは出てきません。
人類社会が、どんどん窮屈になって、自由がどんどん無くなってきてるからです。
あらたな宗教を興せるような、悟りを開ける環境が現代には無いからです。

働かなくても食えて、寝る場所が確保されてて、着るものもある。
そういう人が少ないんですよ。
そしてそういう人を「ニート」と呼ぶわけですが、実際はニートも日々インターネットしたりゲームしたりアニメ見たりと、ボーっと何もしない時間がものすごくある真のニートってそうそう居ません。

どこの寺とかにも行かずに、個人で座禅する人ってあまり居ません。
寺とかで長期間座禅をして、何かを掴んでも、寺のえらいお坊さんの価値観にそぐわなければ否定されるし、認めてもらえないでしょうw
寺に居る事自体が、仏教という価値観に縛られる事になるからです。

だから別に修行とかお坊さんになりたくて来てるわけじゃない、単にストレス解消や文化体験として来てる人の方が、たぶん悟りっぽいものを開けると思いますw
あるいは個人で、精神安定の手段として座禅を寝る前にやってるとか、休みの日に何時間かやってるとかって人の方が、寺で修行で座禅してる人より、悟りを開ける確率は高いと私は考えます。

というか、「ブッダ」自身がそうだったわけですよ。
今も残る「カースト制度」から抜け出し、ヒンドゥー教の修行方法から抜け出し、ただ菩提樹の下で座禅するだけという、真に自由な思考ができる環境を試行錯誤のうえに見つけ出して、はじめて「悟り」を開けたわけですから。

そしてそれは人間であれば、誰しも同じ結論にたどりつくとは限りません。
その人にとっては正解でも、別の人にとっては不正解である事もあるわけです。

既存の宗教や哲学や学問が無駄だとも、間違ってるとも言いません。
ただそれらは、「そういうものもある」という参考程度に考えるべきなのです。
「そういうもの」に囚われてるうちは、悟りも自由もやすらぎも得られませんという話です。

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