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朝日新聞の英文の慰安婦報道誤報報告が、検索サイトに引っ掛からないよう設定していた件に見るマスゴミの真実

日本国内だけでなく世界中でかなりの数の人が気付いていると思うが、中立で公正なマスコミ・ジャーナリズムなんて存在しない。
以前も言ったが、CMと同じく意図的に自分達に都合の良い情報しか流さないし、それらを信じ込ませようとしかしない。
自社製品の欠点は、わざわざ言わないし隠すのがCMだ。
朝日新聞が海外向けに英文で掲載したとされる「慰安婦報道」が真実とは違ってました、すいませんというのを、インターネットの検索に引っ掛からないよう細工していたというのは、中立でも公正でもない、CMを流すただの民間企業と同じだと示しているのだ。

CMはまだ良いほうだ。
あれは「宣伝」だと分かっていて視聴者は見るわけで、よほどの馬鹿でない限りは、CMの内容をそのまま鵜呑みにする奴は居ない。

しかしマスコミやジャーナリズムの発信する情報は、自分たちに都合の悪い情報は一切流さず、都合の良い情報だけ誇張して流しているCMとは違って、一切の偏向も誇張も捏造もない、中立公正なものですと嘘を付いている非常にタチの悪い商売だ。
マスコミ業界以外の民間企業であれば、詐欺罪で警察の強制捜査が入ってもおかしくないし、行政指導があってもおかしくない。

人の不幸を飯の種とし、平気で嘘をつき、一部の人間の利益のためにその他大勢が犠牲になる事に何のためらいも無い。
つまり戦前の新聞社と、本質はなんら変わっていないのだよ。
というか世界中のマスコミが、今やそんな状態なのだ。
朝日新聞が特に酷いのではない。
世界中のマスコミが、多かれ少なかれ同じようなクズの集まりだということだ。

もし本当に神様が居て、宗教が説くような善悪の価値観を持っているなら、マスコミ関係者は地獄に落ちるだろうw

まぁでも安心して欲しい。
宗教が説く善悪の価値観なんてもんは、所詮は人間が自分達自身のために作ったものにすぎず、従ってそれに基づく審判もなければ、天国も地獄も無いからw

なので好きにやればいい。
君たちマスコミがやってる、先祖の罪はその子孫も永遠と背負わなければならないという法則が、自分達自身に降りかかるようになるだけだ。
マスコミ関係者の親族や子供であると言うだけで、迫害される未来もありえるということだよ、今のような事をやってたらね。
君らが政治家や軍人の親族に、今現在やってるのと同じ事をされるだけ。

忠臣蔵で、悪とされた吉良上野介のボディーガードをしていた清水なんちゃらさんって凄腕の浪人の子孫は、あの間違った劇によって、苗字を変えて子孫である事を隠して生きなければならなくなったという話がある。

マスコミは自分達が将来、吉良上野介側にされてしまうかもしれないという危機感が足りないw
吉良上野介にされたくないなら、一方的で改変された情報を流布して、間違った正義の味方や悪の親玉を作るのではなく、何があったのかという「事実」だけを報じて、それについてどっちが悪いだの良いだのの意見は一切付けないことだ。

それができないなら、素直に公正中立ではありません、これはCMと同じですと公言すべきであろう。
あるいは、「感情」を持たない「AI」に記事の作成や編集を任せ、マスコミ業界から「人間」を排除するしかないw
「AI」に仕事を奪われる業界とか、他人事のように論じているが、もっとも「AI」に仕事を奪われる可能性が高いうえに、そうした方が多くの人間にとって利があるのは、君らマスコミ業界だと思った方が良いw

別に安倍首相を持ち上げろとか、戦前の日本を擁護しろとか、そういう極端な事を言ってるわけではない。
単に「公平」で「中立」な「真実」だけを報じれば良いだけなんだよ。

「報道」というのは、言ってみれば「最新の歴史」でもある。
「歴史」というのは、どっちが官軍でどっちが賊軍かを論じるために使うのではなく、そこから将来への教訓をいかに学ぶかに使うべきなのだよ。
これこそが、人間が地球上の生命で最も高い知能を持ったというアドバンテージを最大限に生かすための方法であり、生き残るための唯一にして最終の手段でもある。
それが出来なければ、かつて地球上で隆盛を極めながらも滅びていった多くの種と同じ運命を、人類も辿る事になるだろう。

名前に入っている母音が性格に影響を与える

ふと思い出したので。

私が中学の時の国語の教師が、こんな話を雑談とした。

名前に入っている母音によって、性格に影響が出ると。
その先生は、エロかったので自分の娘が男受けする性格だか容姿になるように、「まゆ」と名づけたとw

「まゆ」という名前は母音が「あ」「う」が入る。

名前に母音の「あ」のある人は、明るい性格になるらしい。
そして「う」が入る人は、色っぽくなるらしい。

ちなみにその他の母音は「い」が入ると正確がきつくなり、「え」は忘れた、「お」が入るとおっとりした性格になるらしい。

なぜ未だに何十年も前の国語の授業のほんの数分だか数十分だか話された雑談を覚えているのかというと、結構あたってると思うからだ。
私は名前に「い」音が入っていない。
従って、性格が非常に弱いw
「い」音が名前にあったり、あだ名や苗字にさえ入っているような人は、私の経験では総じてみな気が強かったw

気が強いといえば、そんなに悪い印象でもないが、裏を返せば自己中で我侭って事でもある。

名前というのは、小さい時から何度も聞く「単語」であり、人生でおそらく一番耳に入る「言葉」でもある。
その音が、脳に作用して何らかの影響を与えるのは、科学的に見てもありうると思う。

言霊なんてのがあるが、音によって脳にそれぞれ違った反応が生じるのであれば、そういうものはあると言ってもおかしくない。

日本人は子供の名前をつける時に、考えるのは主に「漢字」だ。
どういう子になってもらいたいとか、親や祖父母から一文字貰うとかもあるだろう。
最近だとキラキラネームとかが、話題だがw

もし子供にこれから名前を付けようとしている人が居たら、ぜひ「母音」が与える影響というのも、考えてみてはいかがだろうか。

報ステの意図的な誤訳と米国で発覚した中国工作員による日本叩きの実態

どちらも、実際に工作を実行したのは、それらに指示された国内企業であったり自国の政治家だ。

なぜ自分が所属する集団の害にしかならず、他集団の利になる行動を平気でしてしまう人間が居るのか?

答えは人間というのは、所詮は自分一人が、あるいは自分の血を受け継ぐ子供だけが生き残れれば良いし、その為には本来は一人では生きていけない為に作り、所属している集団の利害を平気で無視できるからだ。

これら自集団の害になるような事を、平気でやる人間は、それによって自分だけが何らかの利益を得るからやるのだ。
自分が利益を得るという事は、自分だけが生き残れるという事でもある。

これは全ての生命が持つ「生き残る」という本能に由来するものであり、防ぐ事はできない。
理性や善悪の概念というのも、そもそも自分が生き残るために最善の方法を理論的に考えた末でのものであり、本能を補完するためのシステムの一部にすぎないからだ。

ではこういう利を得れないどころか害を被るしかない、その他の多くの集団所属者はどうすれば良いのか?
答えは「騙されない」事だ。
一見正しい事を言ってるように見えても、それは本当に自分にとって利があるのか?害が無いのか?
それを見極めて、賛同や支持をしたり、反対や反論をすべきという事だ。

自由だの平等だの人権だの自然保護だの、こういう「言葉」自身に惑わされてはならない。
それらはいずれも「無制限」に保障されたり実施しなければならないものではなく、あくまで人類や集団に「害のない範囲」においてのみ、守らなければならない事柄にすぎないのだ。
一部の権力者だけが、生き残れるような事ができないように、その他大勢の平民だの農民だのって階級の人が、自分も生き残れるように、王様や貴族や独裁者が出ないよう、あるいは権力者が不当に権力を行使しないように考え出されたものだ。

自由だ平等だ差別だ言えば、何でも意見が通るのであれば、「神様がそう言ったから」とテロを行う人間を正当化するにも等しい。
そういう思考停止の狂信者と同じになりたくないなら、政治家やマスゴミや市民団体や、あるいは差別だ何だと騒ぐ人の言う事を鵜吞みにするのではなく、それは本当に自分にとって害が無いのか?その人や団体だけが得をするだけじゃないのか?というのをよーく考えてから判断すべきである。

新聞もテレビも、所詮はCMと同じだと考えて見るのが、一番良い方法かも知れない。
なぜなら、CMというのはその企業が儲けるためにやっている「宣伝」であり、その製品がその値段に見合うのか、それらの判断は自分で行うものだからだ。
それと同様に「ニュース」や他人の「主義・主張」というものも、それが本当に自分に害がない、利があるものなのか?
そういうのを考える癖を付けるのが、民主主義が衆愚政治にならない一番の方法である。

褒めて育てる

以前、なんかの番組で見たことあるのだが、褒めて育てるのが一部で流行ってる(?)らしい。
褒め方の研修なんてのもあるようで、そのセミナーで初めて会った参加者同士で、「ではまず相手を褒めてみて下さい」というのが始まった場面が映されていた。

褒めて育てるという方法自体は、別にここ最近になって発案されたものではなく、昔から育成方法のひとつとして存在している。
人間だけでなく、動物というのは褒められれば気分が良くなるし、怒られれば気分は悪くなる。
褒めて育てるというのは、この動物の性質を利用したものだ。
誰かに何かを教えたり、言動を改善させる時に、否定から入るのではなく肯定から入った方が、本人のやる気も上がるし指導者の言う事に耳を傾けようという気にもなる。

何かの企画書を作らせて、「課長、頼まれていた企画書出来上がりました」と持ってきた時に、「何だこれ?こんなもん上に出せるわけないだろ!やり直せ!」と言うのと、「おお、なかなか良いね。でもここをこうしたら、もっと良くなると思うよ?」みたいな感じで修正や訂正を求めるのでは、言われた部下の気持ちが全然違うだろうw

気持ちだけじゃない。
人間というのは気持ちが行動に影響する。
前者のように全否定でやり直しを命じられた場合と、後者のように肯定からやんわりやり直しを命じられた場合では、再提出できるものが出来上がるまでの時間も、内容も、ぜんぜん違ってくる。

仕事の効率が上がれば、その部署の成績も上がるだろう。
そして何より「否定しない」「褒める」事で、部下からの評価も高くなる。
自分の出世にとっても良いことづくめだw

子供の躾や教育も同じである。
ただ何でもかんでも肯定し、褒めれば良いわけでもない。
なぜなら、叱られた経験の無い人というのは、例えその人が性格の良いモラルの高い善人だったとしても、親以外の人間にそれが通用するとは限らないからだ。
何も悪いことをしてないのに、気に食わないだとか、あるいは良い人として人気があるのを妬む人だって居る。
そういう人から否定的な事を言われた時に、うまく対処できなくなってしまう。
突然キレる奴とかって、たぶん「親父にも殴られた事がないのに!」という某アニメの主人公のような人物なんだと思うw

叱る時は叱るのも、特に子供の躾や教育にとっては重要である。
ただ叱るのより褒める事を多くすれば良いだけである。
叱ってばかりだと、子供はだんだんいう事を聞かなくなる。
あるいは「自分はダメな人間なのだ」と自分に自信を持てない、卑屈な性格になってしまう。
否定されるというのは、否定した相手への反感・恨み・憎しみなど負の感情を生むわけで、それが溜まればいつか爆発する。

褒めながらやんわりと言動を修正できそうな場合は、できるだけ叱らない。
これはきつく叱らないと、将来この子のためにならないと思ったら、その時だけ厳しく叱る。
叱る頻度が少なければ少ないほど、いざ叱られた時の衝撃というのは大きくなるし心にも残りやすくなる。

普段あまり叱らないどころか、子供にとやかく言うことすら無いお父さんの居た家庭の子供が、思春期に入って頭を染めて粋がりはじめた。
母親が何度注意しても聞かず、いよいよこのままでは警察のお世話になるような事もやりかねないという段階になって、突然普段何も言わない父親に、「お前、ちょっと話がある」とその子は呼び出された。
そして今まで見たことも無いような剣幕で、激しく父親に叱られたそうだ。
その事が相当ショックだったようで、結果的にそいつは不良の真似事を止めたw

これが効果的な叱り方であろうと思った。

まぁ普段何も言わないのもどうかと思うが、何かにつけて叱ってばかりなのよりは、遥かに効果的であるw

「やさしい」のと「甘い」のとは違う。
否定から入らない、きちんと褒める事ができる人が「やさしい」お父さんなのであって、子供が何をやっても決して怒らない、無関心で無責任なのが「甘い」お父さんなのである。

どんな小さな事でも、褒める。
褒めた上で、修正すべき点があるなら、やんわりと促す。
これは褒めようがないし、厳しく叱らないと本人のためにならないと、よーく考えた末にそう思ったのなら、叱るべきである。
そんな場面はそうそう無いはずであり、だからこそ効果的に作用する。

ちなみにこれ、会社や子供の躾だけでなく、政治の分野でも応用がきく方法なんですよ。
相手を全否定するから、意見を聞いてもらえないし理解しようとしてもらえないのです。
相手を肯定したうえで、でもこの法案のここをこう修正した方が、さらに良くなると思うんですがいかがですかね?みたいな形でやれば、自分の意見も通りやすくなると思うんですよ、一部の野党さんw
これをうまくやってるのが、個人的には維新の党だと思いますw

刑事「お前がやったんだろ!証拠は挙がってんだ!素直に吐けゴルァ!!!」
とやるより、
刑事「ほう、いい面構えだな。お前さん、相当な修羅場を潜って来ただろ。そんなお前がこんなチンケな犯罪をするとは到底思えないが、もしやったとするならそれなりの理由があるんだろ?どうなんだ?」
とやった方が、吐きやすいと思いますw

山口2歳児行方不明を解決したボランティア爺ちゃんに見る歴史の正しい使い方

良いニュースを私の価値観の証明などという、下らない左翼がやるような事をしてしまって申し訳ないが。

このプロボランティアとも言えるお爺ちゃんは、過去に同じような行方不明幼児の捜索に参加した時の経験から、子供は山で迷ったら上に登っていくという習性(?)を学び、それを生かしたために発見できたわけだ。
何も特別に勘が優れていたとか、運が良かったとか言うのではなく、「人間」として自分の過去の経験という「歴史」を正しく使ったから、発見できたと言えよう。

過去の経験を、他人を批判する材料にしか使わない、誰かさん達では絶対に発見は無理であったろう。
2年前にも大分県で2歳の女の子が山で行方不明になった事件があったのに、今回の最後に2歳児と一緒に居た祖父は、なぜ目を離したんだ?
というように、過去の事件を誰かを叩くためにしか使わないのが、マスゴミや左翼や中・韓などの連中である。
だから彼らは「進歩」できないし、そういう連中は決して今回の捜索にボランティアとして参加してたとしても発見はできない。
過去に同じような事件があって解決しているものを、どういう経緯で発見に至ったのか?
誰かを批判するのではなく、そこに今回の件を解決するヒントがあるのではないか?
そう考えて実践したからこそ、このプロボランティアとでも言うべきお爺ちゃんは、名探偵並みの活躍ができたのだ。

前回も述べたが、「歴史」というのはこのように活用してこそ、意義があるのである。
「歴史」は誰かを批判し、マウントを取るために使うものではないし、そんな事をしても人類にとって何の利益にもならない。
人間以外の動植物は、遺伝子や親からの教育でしか、自分たちの種が生き残るのに必要な歴史を残せないし学べない。
しかし人間は、遺伝子や親からの教育なんぞより遥かに多くの情報を、書籍や写真や動画で後の世に残せるのだ。
なぜそれを「正しく」活用できないのか?
誰かが誰かを貶めたり誹謗・中傷したり、謝罪や賠償という利益を得るためにしか使われないのであれば、せっかくのより多くの情報をより正確に後の世に「歴史」として残せるという人類のアドバンテージも、単なる宝の持ち腐れにしかならない。

このニュースに対して、私はそう思ったという話。
カウンタ
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ウホッ!いい男

Author:ウホッ!いい男
異世界転生を待ち続ける中高年のおっさん

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