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他人には見えないものが見える人

科学的には、幻覚や幻聴などと同じく、「脳の動作不具合(エラー)」となっている。

幻覚は、別に薬やったり精神的な病気にならなくても、正常な人でも常日頃見ている。
人間の目には「盲点」という光を感じる細胞が無い場所が、目のちょうど中心あたりにある事が知られている。
従って、本来人間の視界には、真っ暗で何も見えてない部分が中心辺りに存在しているはずなのだ。
しかし実際には、人間の視界の中心に、見えない部分など存在しない。
それは「脳」が見えてない部分を、周りの映像などから推測して補完し、あたかも見えているかのように認識させるからだ。
「見えてないのに、見えるもの」
まさに幻覚だ。

子供はよくそういう見えないものが見えるというが、これは脳が未完成だからであると言われる。
正確には、脳の視界補正プログラムが構築中であり、動作が十分でないからであると考えられる。

さて、本題はもうひとつの見解。

この世界は、平行世界とか異世界とか呼ばれるものが無数にあると言われている。
霊界などと言われる想像上の世界も、実はそれらのひとつである可能性が高いと思っている。
そしてこれら別の世界は、この世界と同じ「場所」に存在している。

例えば、我々はテレビでいろんな放送局の番組を見る事ができる。
他の放送局の違う番組を見ようと思ったら、リモコンなどでチャンネルを変えれば、今見ている同じ画面で違う番組を見ることができる。
放送局の数だけテレビ画面を用意する必要はない。
これが、異なる世界が同じ場所に存在する仕組みとして、もっとも分かりやすい例であろう。

そしてこの世のものではない=別世界の人やモノが見えるってのは、このチャンネルの選択がうまくできていないためだ。

現代っ子には分からんかも知れないが、アナログのダイアルでラジオの放送局を選択していた昭和の時代、場所によっては2つの放送局の音声が重なって聞こえる事があった。
ラジオ放送局の周波数は、基本的に他の放送局と重ならないようになっているが、ぴったりその周波数に合わせなくても、雑音混じりだが聞こえる場合がある。
周波数同士が近い放送局があった場合、そしてそれらの電波が両方とも届くような範囲に置いたラジオでは、2つの放送局のちょうど中間あたりにダイアルを合わせると、両方の放送欲の音声が混じって聞こえるという現象が起きたのだ。
これと同じ現象が、この世の人やモノでないものが見える人には起こっているのだと思う。

日本は古来より、生物の本体は「魂」という永遠不滅のものであり、それらが「肉体」に宿って居るに過ぎないという考えがある。
その考え方からいけば、われわれの現実世界の映像・音・感触などはすべて「肉体」を通して魂が認識しているという事になる。
この場合、「肉体」はラジオやテレビの受信機と同じだ。
この世に存在する肉体は、この世の現象しか受信できないが、肉体は工業製品ではないので、性能に差がある。
この世以外の世界、ラジオやテレビで言えば、割と周波数が近い世界の情報も受信できる肉体があってもおかしくはない。
そういう人が、「霊感がある」みたいになるのだと思う。

またもうひとつの見方として、この世に強い未練や怨念を持ったものは、その魂が幽霊として見えるのではなく、その魂が残した強い思いのエネルギーの残骸が見えるのではないかと言う事。

もともとテレビやラジオなどの「電波」は、時間が経てば消えてしまうが、肉体が感じた強い思いなのか、魂の感情エネルギーなのか、そういのは時間が経っても残るのではないか、消えるのが遅いのではないかという事だ。
そういうものは、本来現実世界で生きていくうえでは、見えてしまったり感じてしまったりすると不都合が生じる。
なので外部からの電磁波や電波などの影響を受けないよう、通信やアンテナ線にはシールドというものが施されているが、同じように生物の肉体にもそういうものが施されている可能性がある。
だが、先にも言ったように生物の肉体というのは工業製品ではない。
かなりの性能差がある。
よってシールドが不十分な人も居るかもしれないし、犬や猫などは人間よりシールドが薄いのかも知れない。
だから人間には見えないものが見える事がある、人間には感じられないものを感じる事があるのかも知れない。

そもそも本来、「魂」というものは、どんな世界も見る事ができるし、感じることができる自由な存在だ。
しかしその能力が封じられる、不自由な肉体にあえて宿る事で、ひとつの世界でひとつの物語だけを体験するのである。
「魂」が本来持っている時間や距離を超越する能力の他に、持っている記憶や知識も封印される。
なぜそんな事をするのか?
その方が、現実世界の人生を楽しめるからだw

他人の感想や評論や、あるいは売り文句のあらすじなどをまったく聞いたり見たりしないで読んだほうが、本の物語は面白いのと同じ。
そういった過去の経験や予備知識なしに、生きるからこそ、人間は失敗をするわけだ。
人間だけでなく、すべての生物が「正解」の行動ばかりしていたら、この世は面白くないw
苦しみがあるからこそ、喜びも倍増するわけだw
逆のパターンもあるが、それすらも魂にとっては良い刺激なのだ。

前にも言った事があるが、楽しいとか嬉しいとか、そういうプラスの感情というのは、食物の味で言えば「甘い」になる。
そういった感情を「甘い」と例える事もあるが、それは魂がそう感じているからだ。
逆に苦しいとか痛いとか、そういう負の感情は「辛い」味である。
そもそも負の感情を表す言葉のひとつである「つらい」と、味の表現のひとつである「からい」は、漢字だと同じ字だw

人には甘いものが好きな人、からいものが好きな人が居るように、魂にも得られる感情の好みがあるのだろう。
また、いくら甘いものが好きと言っても、そればっか味わってたら飽きるし、たまにはからいものも食べてみたくなる。
だからずーっとつらい人生もないし、ずーっと幸せが続く人生も無いのだ。
大抵は幸・不幸はバランス良く起こるが、どちらかの割合が俺の人生は多いなぁと思ったら、それは自身の本体である「魂」がそれを望んだからだ。
甘いもの好きか、からいもの好きだったからだ。
肉体に宿った時点で忘れてしまうが、自分が望んだ事なのだよ。
ゲームとかで、強いと言われているキャラクターを選ばず、腕に自信があるからと、あえて弱い・使えないキャラクターを選んで遊ぶのと同じ。

この世は魂の修行場だとか言う奴もいるが、そんな大層なもんじゃないw
むしろ遊び場、人生ゲームをしているに過ぎないと思っているw
もちろん人以外も、犬生ゲームであり、猫生ゲームであり、ゴキブリ生や植物生もあるし、プランクトン生もあるかもしれないw
寿命が数日しかない、儚い虫けらも、数百年・数千年生きられるが一切動けない大木として過ごすのも、何でもありだ。
望んでそれに宿ったわけだ。

こう考えていれば、もっと楽に生きられるのではないかなーw
人には見えないものが見える人も、不幸続きの人もw

NZのモスク襲撃事件 なぜ日本では宗教テロが起こらないか?

日本は神道と仏教が2大勢力ではあるが、それらはお互いに共存している。
「お前の信仰は間違ってる。俺らの方が正しい。」みたいな事は、お互いに一切言わない。
むしろ仏教の坊さんでも初詣に行くし、神道の神主の家でも死ねばお寺の墓に入る。
少数だがキリスト教の教会もあるし、イスラム教のモスクだってあるが、争いは起こってない。

そもそも宗教の正しい形が、信仰を他人に押し付けない事なのだ。
キリストもブッダもムハンマドも、他の宗教を信仰してる人のところへわざわざ出向いて、「お前らの信仰は間違っている。」とかやってない。
ただ話しを聞きに来た人のみに、説法をしただけだ。

なぜ話を聞きにくる人が沢山居たかといえば、それら3大宗教の創始者達がみな人間的に尊敬できる人だったからだろう。
他の宗教を既に信仰していても、なんかキリストとか言う人は、めっちゃ悩みとかなさそう、幸せそう、なぜなんだろう?
とその理由を聞きにくる。
みたいな事で、信者を増やすのが正しいやり方だったはずなのだ。
わかりますかね?
子供まで使って訪問してくる某キリスト系の新宗派とか、不幸のあった人の話を聞きつけると、よんでもないのに大勢で押しかける某仏教系の宗派の人達はw

移民による争いも同じ。
俺らは自分の民族のルーツに誇りを持ってる。
それは誰が何と言おうと譲れないし、捨てれない。
それは結構。
だがだからお前らは、俺らに配慮しろとか、俺らのやり方を認めろとか、そういう押し付けをするから嫌われる。

そもそも移民なんてのは、信用されなくて当たり前、嫌われて当たり前なんだよ。
かつてアメリカ大陸に渡った日本人移民だってそうだった。
だが彼らは嫌われても差別されても、文句ひとつ言わずに、移民先の文化・風習に合わせる努力をし、まじめに働いて悪いことをしなかった。
そういう態度が、徐々に先住民に「あれ?こいつらもしかして危険な奴らじゃやないんじゃね?」という信用を植えつけたのだ。
アメリカ合衆国の日本人移民なんて、全財産没収のうえ、強制収容所に入れられたわけですよ、太平洋戦争の時は。
そんな扱いを受けてもなお、「われわれはアメリカ人であり、祖国と殺しあう事になってもそれは変わらない」と兵隊に志願してまで忠誠を示した。
そういう態度や実績が、アメリカ人達の信用を勝ち取り、一定の影響力を持つ勢力にまでのし上げたわけだ。

わかるかね?
日本にあわせようともせず、文句ばっか言って、何の生産性もないパチンコとかそういう商売しかしない、あるいは生活保護で寄生する事しかしない某在日外国人のみなさんはw

別に日本国が世界で一番、優れたシステムを持った国であるとか、優れた民族であるなどとは言わない。
しかし少なくとも、テロや移民問題に苦しむ国や当事者達は、参考になるような実績や歴史を日本や日系人は持っている。
なぜ学ぼうとしないのか?
なぜ真似しようとしないのか?

自分たちの文化や価値観を捨てる事と、他民族の文化を学んだり新しい価値観を取り入れる事は、両立できない事じゃない。
日系移民は、日本語をまったく話せないような2世・3世も日本民族としての誇りは捨てていない。
日本の仏教や神道も、信仰をうやむやにしたりしてるわけじゃない。
きちんと昔からの教えや戒律は守って、そのうえで他の宗教の人と上手く付き合ってる。

なぜそれが出来ないのか?

自分の民族の価値観や信仰を保ったまま、他の価値観や信仰にも理解を示す事ができないなら、てめーの国に住み続けろって事だよ。
てめーの国から外に出るなよ。
貧しかったり、危険だったりしても、住み続けろよ。

自分たちの力で、自分たちの国を良くする事が出来ない、そういう努力を放棄して逃げ出してきたくせに、別の場所で自分らの理想の通せると思うなよw

日本に帰化しないで、住むような人を否定はしない。
それだけで追い出せとか言うつもりもない。
最低限、日本の文化・風習を尊重し、法律やルールを守って生活するなら、別に日本が好きじゃなくても、戦時中の日本を恨んでたって、別にいいよw

他人に迷惑を掛けない。

これが日本人が、日本国が世界的に見ても平和で治安の良い、そして豊かな国になった事の、一番の理由。
価値観の押し付け、信仰の押し付け、日本語分からんから英語で表記しろとか、そういうの、全部「他人に迷惑を掛けない」行為じゃないよね?
それを基準に行動すれば、日本だけじゃなくどこの国でも、どんな宗教を信仰してても、すくなくとも殺し合いに発展するまでの軋轢を生む事はないんだよ。

だいたいが人間なんてのは、どんなに「他人に迷惑を掛けない」ように心がけても、誰にも一切迷惑掛けずに生きるなんて無理なの。
だから少しでも、迷惑掛ける度合いを減らそう、必要以上に迷惑掛けないようにしよう、それが自分や自分の子孫が生き延びる、生き残っていく上で、もっとも良い方法だと悟ったのが、日本人という民族なのだよ。
最近じゃ、生粋の日本人でもこれが分かってない、出来ない奴が増えてるけどね。

銃を規制するとか、単一民族だからとか、そんなもんは日本が平和で治安が良い国である理由の一旦でしかない。
そもそも、お前らの国でそれが出来んのかって言ったら出来ないだろw
「他人に迷惑を掛けない」という、たったひとつの信念なのか価値観なのかを、てめーらの心に付け加えるだけでよいのだよ。
今ある価値観や信仰や文化を変えたり捨てたりするんじゃなくて、付け加えるだけでいいの、これを。
家庭なのか学校なのかの教育や躾に、それを入れて実践すれば、何十年後かには、日本と同等レベルの平和で治安の良い国なると思うよ?

好きな人と結婚する人は違う

よく本当に好きな人、恋人にしたい人と、結婚する人は違うと言われる。
もちろん、そうじゃないパターンも存在するだろうがw

それを証明するかのような体験談が、まとめサイトにあったので。

その体験談では、投稿主が学生の頃に好きな人に告白しようと手紙を下駄箱に入れたのだが、誤って苗字が同じ別人のところへ入れてしまい、「人違いですwww」とは言えずそのまま告白したら、なぜかOKされてしまい、そして今は旦那になっているというものだったw

もちろん間違えた相手が、生理的に無理というほど嫌いだったり合わない人だったらこうは行かないだろうw
だが特に異性として好きではないが、嫌いでもないという程度の人だったら、こんな事もありえる。
むしろうまく行き過ぎてしまうという例だ。

なぜか?

本当に好きな異性には、それが男であれ女であれ、自分の勝手な理想や思い込みなどの幻想を抱いてしまうからだ。
「イケメンだから優しいはず」とか「かわいい子だから、性格も良いはず」とか。
それが結婚まで行けない理由だ。
そういうちょっとした、相手へ抱いていた勝手な幻想と現実の違いの積み重ね。
恋人同士という、距離が離れた関係の場合はそれでも我慢できたりするのだろうが、結婚というのは今後死ぬまで一緒に暮らすという事だ。
すごく好きだからこそ、こうあってもらいたいという幻想と現実のギャップに耐えられなくなるのだ。

しかし嫌いではないけど、異性としては特に好きだったわけでもない。
まぁ嫌じゃないし、別にいいかって程度で結婚した場合は、上手くいってしまう。
なぜなら、相手に変な幻想を抱いてないし、求めてないからだ。
「まぁそういう事もあるよねw」「しょうがないよねw」で自分を納得させられ、それほど思い悩んだりせずに受け入れられるからだ。

件の投稿主も、相手はなんかそこそこモテるイケメンらしいけど、自分はそれほどでもないなー程度の人だった。
相手側の男性も、あーなんかかわいい子だなぁとは思うけど、特に自分から告ってまで付き合いたいという程ではないなーだったのだろう。

お互いが恐らく、告られたら断る理由もないので付き合うかもしれないけど、自分から告ろうとかは思わないという程度だった。
だからこそ、勘違いでの告白が上手くいき、そしてそのまま結婚に至るまでずっと付き合えたのだと。

実はこれは、自分の経験からも「恐らくそうなんだろうな」と思える節があるからだ。

中学生ぐらいの男子というのは、大抵クラスや学年でかわいい子のリストを頭の中に持っており(笑)、夜に布団の中で寝付くまで、その子たちと日替わりでいちゃいちゃしたりする妄想をするw
しかし、そういうリストに入ってない子から、突然告白・・・ではないがバレンタインに本命チョコを渡された事があるw
最初は何かの罰ゲームか、からかっているのかと思ったが、中学三年間ずーっとチョコくれたし、なんか手紙とかもついてたし。
「ああ、罰ゲームでもなく、からかわれているわけでもなく、本気で俺の事を好きになってくれたんだ」と思えた。
正直、最初は驚きと疑いしかなかったが、同時にすごくうれしかった。

男というのは、最初はどうしても女性を見た目で選んでしまいがちだ。
だからこの子が「こいつとだけはないわーw」という不細工リストに入ってるような子だったら、即効で、中学生男子らしいかなり酷い言い方かやり方でお断りしていただろうw
だが夜の甘い妄想する子リストにこそ入っていなかったものの、実はかわいい部類に入る子だった。
顔はもちろんだが、背が小さくて性格がおとなしいというか、あまり目立つ事をしないし、大きな声ではしゃいだりもしない、どストライクな子だったのだ。
なぜリストに入れてなかったのか、後になって不思議になるぐらいにw
背が小さいのに巨乳だったのもポイントが高かったw
まぁ別におっぱい星人ではなかったが、ギャップ萌えってやつだw

もともと人見知りの激しい性格なうえに、家族で女はかーちゃんだけという環境で育った事もあり、特に女の子は苦手だった。
「こいつとだけはねーわw」というドブス(失礼w)はともかく、特に美人だったりかわいかったりするわけでもない、普通の子とでも、相手の目をみて離せない、妙に意識して顔が赤くなってしまうなどがあったからだ。
ちなみに今でも、超かわいい子じゃなくても、たとえ告白されても全力でお断りしたいレベルの子(容姿やスタイルや年齢といった見た目だけでなく、性格的なものも含めて)以外の女性と話すのは苦手だw

話が誰も聞きたくない高齢ニートの甘酸っぱい青春の思い出になってしまったが、なぜこの体験が「本当に好きな人とは結婚しない方が良い」の理屈を納得できる経験なのかというと、エロい妄想をする相手リストに入っていなかったので、変な幻想とか抱いてなかったからだ。
告られてはじめて、「あれ、こいつかわいいし、なんかうれしい、いいんじゃね?」と思った、というかこっちも何か好きになってしまったからだ。
だからもしあの時、「俺には女なんて必要ないぜw」とか変な方向に粋がった中二病の糞ガキでなっかったら、そのまま付き合って結婚までいってたと思う。
というか、私の事を勇気を振り絞って告ってまで好きだと言ってくれる人なんて、もう一生現れないと思ったしw
ちなみに、その思いは正しかったらしいw

しかしながら相手はどうだったか分からない。
そのままもし変な中二病の症状を出さずに、「ありがとう、僕も君の事が好きです。付き合って下さい」と返事できて、そのまま何年か恋人で居たとしたら、もしかしたら相手は幻滅したかもしれない。
別れ話が出るとすれば、おそらく相手からだっただろうとも思う。
なぜなら、相手は私に変な幻想とか理想とか思い込みを持ってる可能性が高かったからだ。
そもそも女性に好かれる要素が、まったく当時の自分には見当たらなかった。
特に家が近くて幼稚園ぐらいの時から顔見知りの幼馴染とかいうわけでもなかったし、たしかに小学校の頃から同じクラスに何度かなった事はあったが、その時も特に親しくなかったどころか、話をした記憶さえない。
唯一、何か班でやる工作の宿題かなんかを、その子の家に班のみんなで集まってやった事があったなぁぐらい。
結構大きいけど、古い農家っぽい家だった覚えがあるが、それだけだ。
とても好きになって貰える切欠が思い当たらない。

だから自分は相手に対して、何の幻想も思い込みも理想も抱いてなかったので、そのままもし付き合ってたとしても、「あ、こいつこんな所があるんだ」と好きになるポイントが増える事はあっても、減る事なんぞ無かったと思うw

二次元限定だが、つるぺたロリ好きな自分にとっては、ロリ巨乳も大いに有りであり、私の人生の中で三次元に存在した唯一の人でもあったから、もしタイムリープでもして当時からやり直せたら、もうこっちから頭を下げてでも彼女になってもらうだろうw
まぁ今は変な相手への幻想や、思い出補正がかかってるので、当時に戻って付き合えても結婚までいけるかは分からんがw

つまり結婚とはそういうものだ。
相手に変な理想や幻想を抱いているほど、好きな人との結婚は、それゆえに上手くいかない事が多いのだ。
だから昔の人達は、その体験から「本当に好きな人とは結婚しない方が良い」「恋人になる人と、結婚する人は違う」という格言を残したのだろうと思うw

ちなみにうちの両親も、恋愛結婚ではなく、お見合い結婚だった。
だからこそ、親父が死ぬまで離婚とかしないで済んだし、子供3人ももうけるほどの良い家庭だったんだと思う。
親父もお袋も、相手に対して特にこの人じゃなきゃ絶対ダメとかいう気持ちが無く、「まぁ歳も歳だし、悪い人じゃなさそうだし、いっかwww」みたいな、軽い気持ちで結婚したんだと思うw
それが結果的に、熟年離婚もしないで長く一緒に生活できた理由だと思うのだ。

だから「お見合い」とか「親が勝手に決めた相手と」みたいな、昔の日本の風習は、そんなに悪いもんじゃないんではないかと思う。
駆け落ちしたいほど好きな人が居たのに、当時付き合ってた人が居たのにとかいう「恨み」みたいな負の感情が無ければ、なんだかんだ上手くいって「あれ?なんかそんなに期待してなかったけど、幸せな結婚だったんじゃね?」ってじいちゃんばぁちゃんになってからも思える、仲良し夫婦で居られるのではないかと。
少なくとも離婚したいほど嫌いになる確率は低いのではないかと。
むしろ大恋愛の末の結婚の方が、あとあとそうなる確率が高いのではないかと。
「こんなはずじゃなかった」というのが多々出てくるのではないかと。

そういう事を思ったという話。

「悩む」とはどういう事か?

悩むのを止めたら人生が楽になった
という話題が某まとめサイトに載っていたので。

そもそも「悩む」とはどういう事か?

複数の選択肢があり、どれを選んで良いかわからない。
あるいはそもそも選択肢が出てこない。

こういう状態を、いわゆる「悩む」とか「悩みがある」とか「悩んでいる」などと言う。

しかし実際これらは、「錯覚」である事が多い。
理論的に考えれば、とるべき選択肢はひとつ、あるいは解決方法はひとつしかない場合が殆どである。
にも関わらず「悩む」のは、「欲望」というのものが邪魔をするからだ。

仏教などでは「煩悩」とも言うが。

例えば、明日までにこの仕事をしなきゃいけない、あるいは宿題やらなきゃいけない、レポート提出しなきゃいけない。
そういう時に、それを最優先して全力で行うしか選択肢は無いはずだ。
だが実際には、「面倒くさい」「やりたくない」という「感情」が邪魔をする。
だから「悩む」のだ。
明日までにやらなきゃいけないけど、とてもじゃないけど明日までに終わる気がしない。
どうやったら終わらせられるだろうか?
そんな事を考える=悩む必要は本来は無いのだ。
そんな暇があるなら、とにかく一刻も早く行動した方が良いに決まってるし、そうすべきと分かっているはずだ。

つまり「悩まない人生」というのは、「煩悩を捨てろ」っていう仏教の教えを実践すれば良いだけなのだ。

本能の赴くまま生きる事でも、何も考えずに生きる事でもない。
また誰にも相談しないとか、人の意見を聞かないとかって意味でもない。

「悩む」と「煩悩」や「本能」に左右された、正しくない答えを出しがちになる。
そして余計に物事が上手く行かなくなって、さらに「悩む」のだ。

うちの会社、どう考えても残業時間が多すぎるし、残業代も出ないし、おかしい。
辞めるべきなのだろうけど、でも辞めても次の仕事が見つかる保障はないし、同じようなブラック企業しか見つからないかも知れないし、そもそも貯金も無いし働き続けないと食っていけないしと悩む。
そして結局、ズルズル続けて体を壊して倒れる、過労死するか、精神を壊して自殺するかしてしまう。
「悩む」事を止めれば、とっととブラック企業を辞めるという正解の行動を取れるはずだ。

あのかわいい子、何か俺に気があるような感じがする。
付き合いたい。
でも告白して断られたら・・・
告白さえしなきゃ、彼女には出来ないけど友達では居られるかも知れないし・・・
こういう「悩み」もそう。
「嫌われたくない」「恥をかきたくない」という気持ちが、思い切って告白するという「正解」の行動を取らせないのだ。
「告白が成功するかどうか」は、重要なポイントではないのだ。
悩んだところで、告白の成功率は変わらない。
告白してOKして貰えるか、ごめんなさいされるかは、てめーが悩んだところで変わらないからだ。

俺みたいなキモメンが告白しても迷惑なだけだと思うなら、きっぱり諦めれば良い。
悩んだところで、キモメンがイケメンになる事はないw

このように、だいたいの悩みというのは、正解が出ている場合が多いのだ。

全てにおいてそうだとは言わないが、これが「悩まない人生」の実践の仕方だろう。
悩んでも結論が出ない事に、無駄な時間や労力を使うなという事だ。
悩まなくても結論は既に出ている事を、潔く認めろって事だ。
その方が、人生は楽になるという事だ。

まぁ理屈では分かっていても、実践するのは難しいわけですがw
そもそも私自身が実践できてないわけでw
実践できているなら、とっくにニート生活なんてしてないわけでw

世界中に迷惑を掛けた米ソ冷戦はまだ終わっていない ベネズエラの惨状

ソ連の崩壊により、米ソ冷戦という世界的な危機は終わったとされるが、実は何も終わってない。
実際、ソ連からロシアに変わった後も、規模が小さくなっただけで、相変わらずこの2国は他国に干渉しまくり、迷惑を掛けている。

つい最近ニュースになったベネズエラの停電。
これは政権側をロシアが、反政権側をアメリカが支援している事により、対立が激化・長期化している事が原因だ。

米ソ時代は、多くの国で代理戦争や代理内戦をやらせてきたが、未だにやってる証拠である。

ベネズエラは本当に独裁政権とかで国民が困ってるなら、アメリカという国ではなく、国連に助けを求めるべきだったのだ。
国連も完璧とは言えないが、少なくとも米・露というクズ大国に助けを求めるより、はるかに混乱は抑えられただろう。

それと米・露に言いたい。
勢力争いしたいなら、てめーらだけで直接対決しとけと。
他の国を巻き込むなと。

てめーらだけで、好きなだけ殺しあえよ。

かつて世界中を侵略し、迷惑を掛け捲ったイギリスを始めとしたヨーロッパの列強が、今どうなってるか見えてないのか?
みな落ちぶれてるだろ。
武力で脅し、国民の生活に何の利もない兵器しか援助しないような国は、かならずしっぺ返しを食らうという良い見本。

歴史をどっちが正義でどっちが悪かとか、そういうアホみたいな外交戦略、マウント取るための材料としてしか使わないから、せっかく人類だけが持っている「歴史」というアドバンテージを生かせないのだよ。

ベネズエラは政権側も反省権側も、米露それぞれの支援を断るべき。
それが混乱の収拾へのもっとも近道になる。
どうしても支援が必要なら、国連に頼むべき。

そして国連は、その存在意義を示したいなら、「内政干渉」をもっと厳しく禁止し、取り締まるべき。
それこそが、世界平和に繋がる。
世界の安定に繋がるのだよ。
カウンタ
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ウホッ!いい男

Author:ウホッ!いい男
異世界転生を待ち続ける中高年のおっさん

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