ニートも長年やってると、いろいろ考える事があります。
俺の人生は何だったのか?何のために生まれたのか?なぜ生きているのか?
こんな事は、毎日家族を養うために必死で働いてる人は考えないでしょう、というか考える暇なんて無いでしょうw
別に家族が居なくても、家がそんなに裕福じゃないとか母子家庭で高校卒業してからすぐ働かなければならなかった、そうしないと生きられなかったって人とかもそうだと思います。
さて、仏教の開祖と言えばゴーダマ・シッタールダ、通称「ブッダ」と言われている方ですね。
「ブッダ」というのは、「悟りを開いた人」という意味でもありますが、なぜこの方が悟りを開けたのか、今ならわかります。
ニートだったからですw
仏教関係者には怒られそうですが、よーく考えてみてください。
厳しい修行にしろ、心やすらぐ環境での瞑想にしろ、どれもこれも1円の金にもならないんですよ。
働いてないんですよ、彼は。
もともと王族で、汗水垂らして必死に働いて、それでも毎日食うものに困るような出自ではないわけです。
今も一部でそうですが、修行僧というのは1円のお金も稼いでません。
人間が働くのは食っていくためです。
金が無ければ食えません。
だから修行僧は、托鉢という、まわ悪い言い方をすれば「物乞い」で食いつないでるわけですよ。
まぁニートよりかは動いているとは言えるかもしれませんが。
つまり必死に働いてたら、悟りなんて開けないんですよw
これがニートだから見えるものがある という根拠です。
ブラック企業で自殺するまで働かされる人が、なぜ死ぬ前に仕事辞めないのか?
そういう考えが、出てこないんですよw
いじめ自殺も同じです。
まともに働いたり学業に励んでる人には、悟りが開けないのの、もっと酷いバージョンが自殺に追い込まれる人達なんです。
ゆっくり「考える」暇を与えない。
これが辞めさせずに低賃金でこき使うブラック企業の、基本的な手法です。
いじめも、自殺するまでいじめられる奴ってのは、いじめられる側の個人差はありますが、いじめる側が上手いんですよ、言い方は悪いですが。
「逃げる」とか「誰かに助けを求める」とか考える暇を与えない、あるいはそういう手段を封じるなど、巧妙だって事ですね。
世の中には「常識」が無いと言われる人達が沢山居ます。
虐待などされて育った人は、どこかしら常識がズレてたりします。
あるいはそれほど酷くなく、なんとか大学までおかしな家庭環境のまま卒業できた人とかも、どこかしらおかしい。
あるいは、兄弟が居て、自分はターゲットにならなかった、むしろ一緒に虐待する側だった人なんかも、当然歪みます。
そういう人達は、当たり前ですが悟りなんて開けませんw
人が悟りを開くには、何か必死にしなければならない事が無く、考える暇が沢山あり、なおかつ食う事に困らない状況が必要だということです。
人間だけが、「文化」を持てたのは、単に知能が高かったからだけではありません。
他の動物のように、24時間365日、生きるのに必死にならなくて済んだからです。
つまり「暇」があったからです、他の動物よりも圧倒的に長時間の。
その暇な時間のおかげで、生きるのに必ずしも必要ではない、絵を描いたり歌をうたったり、あるいは神に祈ったりみたいな、「文化」を持つようになったんですよ。
そして、この「何もしなくても良い時間」が多ければ多いほど、人は哲学的な事を考える、誰にも洗脳されたり強制されたりしない、真に自由で第三者的視点を持って、物事を見つめなおせるのです。
座禅というのは、ブッダの悟りを開く方法にならって行われる仏教の修行のひとつです。
座禅はいま海外の人にも、ストレス解消法として人気らしいです。
座禅というのは、「何も考えないで、じっと座って居る事」ですが、実は「何もしなくても良い時間を過ごす事」でもあるんですよ。
そうすることで、日々の様々な洗脳や強制から逃れて、自由を得る。
だから開放感とかストレス解消の効果があるのです。
学校であれ会社であれ、あるいは専業主婦でさえも、まともに家事や近所付き合いとかしてれば、いろんな束縛や強制や洗脳が入ります。
なので完璧に「常識」を持つ人など居ません。
みなどこかしら「非常識」であるはずなのです。
その度合いが、大きいか小さいかなのです。
そもそも「常識」とは何か?
理論的な思考をすれば、こうすべき、これが正しいと思える事が出来る、言える事です。
「非常識」というのは、理論的におかしい事を言ったりやったりする人の事を言いますから、その逆が「常識」なので当たり前ですねw
理論的な思考ができるには、誰にも影響も洗脳も束縛も強制もされてない、真に自由な状態が必要なんですよ。
世界三大宗教が誕生してから、ずいぶん経ちます。
でもそれ以降、新たな大宗教となるものは出てきません。
人類社会が、どんどん窮屈になって、自由がどんどん無くなってきてるからです。
あらたな宗教を興せるような、悟りを開ける環境が現代には無いからです。
働かなくても食えて、寝る場所が確保されてて、着るものもある。
そういう人が少ないんですよ。
そしてそういう人を「ニート」と呼ぶわけですが、実際はニートも日々インターネットしたりゲームしたりアニメ見たりと、ボーっと何もしない時間がものすごくある真のニートってそうそう居ません。
どこの寺とかにも行かずに、個人で座禅する人ってあまり居ません。
寺とかで長期間座禅をして、何かを掴んでも、寺のえらいお坊さんの価値観にそぐわなければ否定されるし、認めてもらえないでしょうw
寺に居る事自体が、仏教という価値観に縛られる事になるからです。
だから別に修行とかお坊さんになりたくて来てるわけじゃない、単にストレス解消や文化体験として来てる人の方が、たぶん悟りっぽいものを開けると思いますw
あるいは個人で、精神安定の手段として座禅を寝る前にやってるとか、休みの日に何時間かやってるとかって人の方が、寺で修行で座禅してる人より、悟りを開ける確率は高いと私は考えます。
というか、「ブッダ」自身がそうだったわけですよ。
今も残る「カースト制度」から抜け出し、ヒンドゥー教の修行方法から抜け出し、ただ菩提樹の下で座禅するだけという、真に自由な思考ができる環境を試行錯誤のうえに見つけ出して、はじめて「悟り」を開けたわけですから。
そしてそれは人間であれば、誰しも同じ結論にたどりつくとは限りません。
その人にとっては正解でも、別の人にとっては不正解である事もあるわけです。
既存の宗教や哲学や学問が無駄だとも、間違ってるとも言いません。
ただそれらは、「そういうものもある」という参考程度に考えるべきなのです。
「そういうもの」に囚われてるうちは、悟りも自由もやすらぎも得られませんという話です。
修羅場だが懺悔だかのまとめサイトで見た話に、こんなのがあった。
お金持ちだが子供が居ない親戚夫婦に、裕福ではないが子供が3人も居る投稿主が、その子供のうちの一人を養子に出した。
切欠は、親戚の集まりのたびに小梨(子供が居ない事のネットスラングのようです)夫婦が、3人も居るんだから一人うちの子にならない?と子供達に言っていたため。
もちろん小梨親戚金持ち夫婦も、3人子持ち投稿主夫婦も、祖父母もお決まりの冗談で挨拶のようなもんだと認識していたと。
ところが子供3人のうちの一人が、ある時にその金持ち小梨親戚夫婦の養子になると、本気で言い出したらしい。
何度あれは冗談だとか、そんな事を言ってはいけないと注意しても聞かず、ずーっと言い続け、それに実母である投稿主の心がついに折れてしまい、養子に出したと。
自分の腹を痛めて産んだわが子であるはずなのに、もう何の愛情も沸かなくなったと。
さて、この話を読んで思った事は、親というのは必ずしも子に無償の愛を注げるものでは無いという事だ。
まず親が子に無償の愛を注ぐのは、ひとえに人間も含めてすべての生き物の究極の目的は、自分の遺伝子を後世に残す事だからだ。
よって子ができるまで、あるいは自分が子であるうちは、たとえ親や兄弟であっても自分が生き残るのに障害になると思えば、切り捨てる。
しかし親になった瞬間から、今度は自分が生き残るためではなく、自分の遺伝子を継ぐわが子が生き残るために全力を尽くすようになるのである。
だから自分の命を犠牲にしてでも、子供を守ろうなんて事ができるわけだ。
しかしこれには、実は罠がある。
自分の遺伝子を継ぐものは、最低でも1固体だけ生き残れば良いという事。
人間以外の動物を見れば分かるが、生涯に1匹しか子供を産まないものは、恐らく居ない。
なぜなら、自分の遺伝子を継ぐ存在が残る確率が、それだと非常に低くなるからだ。
だから弱い生き物ほど、一度に沢山の卵だの子供だのを産んだりするわけだ。
人間は地球上の全生命の頂点に居るわけだが、それでも事故や病気などで大人になる前に死んでしまう子供は居る。
今より医療が発達してなかった時代は、日本でも兄弟は5人とか6人とか居るのが当たり前だった。
なぜなら、そうしないと家が途絶えてしまう可能性があったからだ。
しかし現代の日本は、よほどの事が無い限り大人になる前に死んでしまう子供というのは、少ない。
一人っ子が多くなったのは、そういった環境による必然でもあるのだ。
なにせ子供は一人でも育てるのは大変だ。
金が掛かるのはもちろん、それ以外にも精神的にも肉体的にも、ものすごく消耗するわけで。
それこそ命がけなんだから、当たり前だがw
つまり、一人居れば十分なのに2人も3人も子供が居たら、どれかに愛情が偏るのは当然なのだよ。
一番優秀な子、生き残れそうな子を本能的に優遇するのは、当たり前なのだよ。
それは野生の鳥の子育てでも見られるだろ?
人間は、「理性」でそれらを「間違った行い」と無理やり思い込んで、無理やりどの子にも同じように愛情を注ぐ振りをしてるにすぎないのだ。
だから兄弟格差のある家庭が出てくる。
私も幼少の頃に、同級生にそういう家庭があったのを見てきている。
特に正確に問題がありそうな、いわゆる毒親とかDQNとか言われるような両親でないにも関わらず、妹ばかり優遇して、姉は飯もロクに食わせてもらえず、学校で友達の弁当を盗み食いしたり、服もボロボロだったり。
「理性」が足りなかったり、精神が弱かったりすると、必然的に一番「生き残れそうな」子だけにしか愛情を注げなくなるのだよ。
人間なんて、自分たちが思うほど強くもなければ、能力が高いわけでもない。
注げる愛情の量には限りがある。
ましてや自分の命はひとつしか無いわけで、2人も3人も居たら全員に命を掛けるなんてできないでしょ?w
もっとわかりやすく言えば、兄弟のうち誰か一人が車に轢かれそうになって、それこそ命がけで守った結果、自分が死んでしまったら、他の兄弟が同じ目にあった時に、物理的にもう守れないわけですよ、だって死んじゃってるわけですからw
もちろんその子も守れませんが、親に命がけで守ってもらったという最大の愛情は、どうがんばっても、もう他の子には注げないわけですよw
だから必然的に、一番生き残れそうな子に愛情が偏る。
理性でもって、何とかそうならないよう、ある程度の努力はできます。
しかし完璧にそれをこなせる人間など、居ないです。
そして子供というのは親が思う以上に、そういうものには敏感です。
私の育った環境も、貧乏なくせに3人も兄弟が居やがったので、随分と不満はありましたよ。
もちろん、誰かに愛情が偏らないように、周りの親と比べても非常に厳格に努力していた事は分かってますし、感謝もしてますけどね。
投稿主は、血が繋がってない義理の子供ならともかく、自分の腹を痛めて産んだ正真正銘のわが子なのに、いくら子供の心ない言動が精神的に折れるまで続けられたとはいえ、それで子供に何の愛情も沸かなくなった自分の非情さをずっと嘆いているわけです。
ですが、それは生物学的な観点から言えば、当たり前であり非情でもなんでもない。
非情だと自分を責めるのは、人間が「理性」で作った価値観のせいであって、それは神様から言われた絶対的でも何でもないものに囚われているからだと思ったのです。
いわゆる「道徳」とか、そういうものですね。
もちろん「道徳」を否定する気はありませんが、それで悩み苦しみ、自分の人生、ひいては捨てられなかった他の兄弟にもそれが影響してしまうぐらいなら、所詮は人間が自分たちの都合で勝手に作った「道徳」による思い込みなんだと考えて、少しでも楽になった方が良いのでは?と思ったからです。
本能的に切り捨てた子の事を、いつまでも気にして、本能的に守ろうと思った他の兄弟に愛情を注ぎ切れなかったり、守れなかったりしたら、それこそ生物として失格だし本末転倒ですよって事です。
「理性」こそが、人間特有の、人間を他の生物と一線を画す能力のひとつであるのは確かです。
しかし逆に「理性」のせいで、生物本来の「生き残る」という最大の目標と、逆のことをしてしまうのもまた事実です。
いじめ自殺は、この「理性」のせいで起こると私は思います。
いじめを止めさせる方法というのは、モラルだの法律だのを「無視」すれば、いくらでもあるし誰にでもできるんですよ。
それこそいじめてるやつらを、全員殺してしまえば良いわけですから。
でもそれは「理性」が許さない。
自分が殺人犯になるのはともかく、まったく関係ない親なども殺人犯の親族として迷惑を掛ける事になる。
だからいじめを終わらせるために、自分が死ぬという間違った選択をせざるをえなくなるのです。
「理性」が無ければ、そんな結論には至らないでしょうって事です。
話が逸れましたが、人間はどんなにがんばっても「本能」からは逃れられないのです。
また「理性」は必ずしも人間を正しい結論に導くとも限らないのです。
つまり「過ぎたるは 及ばざるが如し」って事ですよ。
理性など一切無視して本能のままに生きるのは、もちろん間違いです。
ですが本能を殺して理性だけで生きるのも、また間違いだと言いたいのです。
理性はほどほどに働かせ、本能を押さえるのもほどほどにすべきという事です。
それが人間が人間としての形を保ちながら、生命としての「生き残る」という目標を狂わせなくて済む一番の正しい生き方だと言いたいのです。
私どもニートの事ではありませんw
そんなもんは、十分承知しておりますw
今回の「現実がみれない人」というのは、石破氏とその愉快な仲間やマスゴミの事です。
安倍首相は553対254という、得点制のスポーツやゲームで言えば「ダブルスコア」での圧勝をしました。
ところがなぜか、「安倍圧勝」とはどこのマスゴミも言いません。
石破氏が予想外に善戦したとかいうのばかりです。
前回の総裁選は立候補が安倍首相しか居なかったので、投票は行われていませんが、前々回は安倍・石破両氏が争っています。
正確に言えば、2012年9月26日に一度体調不良で脱落した安倍さんが、復活を決めた総裁選での事です。
この時は、安倍・石破両氏をはじめ5人もの候補が総裁の座を争いました。
最初の投票では石破氏が一番得票を得て、安倍氏は2位だったんです。
ただ差が小さかったのか、あるいは規定の得票数に1位の石破氏が満たなかったのかで、安倍・石破両氏だけでの決戦投票が行われて、安倍氏がそこで奇跡の逆転(?)で当選したわけです。
しかし今回は、前々回かろうじて勝ったはずの安倍氏は、同じ相手にダブルスコアの差を付けて「圧勝」してるわけですよ。
これをどう見たら「善戦」になるのか、不思議でなりません。
まぁ前回の総裁選のように、誰も戦おうとすらしなかったのから比べたら、対抗しようとした人が出てきて、しかもコールドゲームにならなかっただけでも、マシというか安倍さんの影響力が低下したと言えなくもないですがねw
スポーツで考えたら、今回の石破陣営やマスゴミの反応は「みっともない負け惜しみ」でしか無いのが分かるでしょう。
なぜって、前々回はリーグ戦では勝ったのに、決勝トーナメントで負けたチームに、今回はリーグ戦は無かったですが決勝トーナメントで「ダブルスコア」で「ボロ負け」したわけです。
なのに監督やコーチなどの関係者は「よくやったwww」と拍手してるのです。
その試合を見ていた観客からしたら、「何言ってんだあの監督www」ってなるでしょう?
そりゃ負けチームのOBや親からしたら、「うんうん、よくやったね」って人も居るでしょうが、どっちのチームのファンでもない人からしたら、負けチームがそんな事言ってたら「負け惜しみ」にしか聞こえませんよね?
これが今、多くの人が「マスゴミは何を言ってるんだ?」と違和感を覚える事の正体ですよ。
前回戦った時よりも、差が縮まったのであればまだ分かりますが、前回より差を広げられて、「ダブルスコア」で負けたわけですよ。
どこをどう見たら「善戦」になるんでしょうか?って話です。
正確に言えば前々回は最後の最後で逆転負けされ、前回は戦いを見送って練習に励んで満を持して今回は戦いを挑んだにも関わらず、前々回とは比べものにならない圧倒的な負けを期したわけです。
これを「善戦」したなどと喜んでいるようでは、「成長」しないでしょう。
スポーツならそうですよね?
だって前回の惜敗をバネに、この6年間死に物狂いで練習し、対策してきたのにボロ負けしたわけで、普通ならこれまでやってきた事を見直さないといけないわけですよ。
練習内容や戦略を大幅に見直すような、「反省」を大いにしなければならないはずです。
ところが「善戦」したと、まったく「反省」してない。
そんな人が、強くなれるわきゃないですよね?
成長できるわきゃないですよね?
私が子供の頃の野党第一党といえば、今は亡き(笑)社会党でした。
当時も自民党は強かったですが、それでも社会党の支持率は自民党が45%ぐらいなら社会党は25%ぐらいはあったと思います。
それが今やどうですか?
自民党が50%近い支持率を誇りながら、野党はのきなみ1桁ではないですか。
これをどう見たら、国民は自民党を、安倍首相を実は支持していないなんて言えるんですかね?
そういう「現実をみれない」「妄想の中で生きる」ニートのような事をしているから、成長できないし勝てないんですよ。
それが最もよく現れたのが、今回の自民党総裁選と、その結果に対する石破陣営及びマスゴミの反応でしょうw
安倍氏は今回かぎりで、総裁戦には二度と出ない、つまり「引退」を表明しています。
政治家そのもを辞めるかどうか分かりませんが、師匠である小泉純一郎氏にならうのであれば、国会議員すら引退するかも知れません。
なので普通に考えれば、次回はほぼ確実に石破総理が誕生するでしょう。
ですが、今回のように「現実がみれない」ニートのような醜態をさらしてしまったために、私は難しいと考えます。
わざと立候補せず、表舞台にも極力出ないで影でこそこそやってた、見方によっては「卑怯者」でもある小泉Jr氏なんかが、次回立候補でもしたら、確実に負けるでしょうね、石破氏は。
だって「反省」してないですからw
次回も「時期尚早」と見て小泉Jr氏や、その他の有力候補が立候補を見送って、石破政権が誕生したとしても、こんなまともに「現実をみれない」ニート政権に日本を任せるなんて、不安を通り越して絶望ですよ。
また影でこそこそやってた卑怯者が政権取ったとしても、良い気持ちにはなれませんね。
別に安倍信者でも何でもないし、今の安倍氏の政策ややり方のすべてが良いなどとは思っていません。
むしろ、もっとマトモな人が居るなら、すぐにでも変わって欲しいぐらいですよ。
ですが、もっとマトモな人が出てこないどころか、野党はもちろん自民党内にすら「マトモ」とは遥かにかけ離れた「無能」しか居ないのが、今回わかってしまった。
私はもう早く死にたい人間なので、正直どーでも良いですが、この先何十年もまだ生きなければならない家庭を持った「マトモ」な日本人の多くや子供たちにとっては、「絶望」以外の何者でもないでしょうね。
安倍氏やその愉快な仲間達には、マスゴミなどのアホに踊らされて、する必要も無い「反省」に時間を割かずに、「マトモ」な日本人や子供たちの未来への「絶望感」を少しでも減らせるよう、全力で「予防線」を張って欲しいと思います。
この「予防線」とは、憲法改正の事を言ってるんです。
私は憲法九条はいずれ全国家が導入すべき、素晴らしい理想的な条文だと思いますが、現在の国際情勢というか人類には早すぎるものです。
理想と現実のギャップが大きすぎて、このままでは日本国そのものが潰されかねません。
ですから九条そのもは放棄しても良いぐらいに考えています。
しかしそれは無理でしょう。
であればせめて、最低ラインとご自身も考えておられるであろう「自衛隊の明記」ぐらいは、実現してから引退して欲しいのですよ、安倍首相。
それが「マトモ」な多くの日本人や子供たちに、あなたが残せる最後で唯一の「希望」なのですよ。
お師匠様である小泉純一郎元首相は、「郵政民営化」という自身の最大目標を達成してから引退しました。
ちなみに私は「郵政民営化」は、自身の政治生命を掛けてまでやるべきものでは無かったと思いますし、インフラは民営化すべきでないと今でも思ってますがねw
ただその姿勢だけは評価しますというだけですw
なので安倍首相にもぜひともその「姿勢」だけは見習って欲しいし、実現して欲しいと願う次第です。
さすがに町の声とか、ほぼ圧勝してる安倍さんを批判する意見ばかりだと、「なんかおかしくね?」って思われると思ったのか、賛同と批判の半々でまとめてきたNHKの夜のニュースw
その(恐らくヤラセの)町の声とやらで、面白い傾向が見れる。
賛同派は経済や外交や、そういった具体的なものに対して安倍さんにこうして欲しい、あーして欲しいと言っている。
しかし反対派は、一人が何期もやるのはーとかモリカケ(笑)ガーとか、具体的なものが一切なく、感情論だけ。
これは非常に今の日本をあらわしているなぁと思った。
別に安倍さんの政策の全てが良いなどとは、誰も思ってない。
にも関わらず圧勝してしまうのは、「俺ならどーする」という具体的な事を言う奴が居ないからだ。
もうね、散々言ってきた事だけど、批判すら単なる感情論、安倍が嫌いなだけ。
だから具体的に「俺ならどーする」って政策が示せないんだよ。
うちの左翼親もそうだが、とにかく安倍の顔さえ見れなくなればそれでいいって、そういう思考ね。
安倍の何が悪いのか、どーすれば良いのかの愚痴は一切ない。
こんなアホどもに、賛同できるわきゃない。
安倍さんの何がどう悪いのか、「具体的」に教えて欲しい。
そして「俺ならどーする」というのを「具体的」に言って欲しい。
これだけでも、かなり安倍一強は崩れるのだが、石破も小泉ジュニアすらもそれが言えない。
だから負けるし、どんどん支持を失う。
むしろ、何も言わずにこっそり陰口でも叩いてた方が、国民を騙せたであろうに、なまじ勘違いして口を開くから無能さが露呈してしまう。
国民が政治家に求めてるのは、「他人の悪口」じゃないの。
自分達にいかに利があるか、害が無いか、そういう「具体的」な「政策」なの。
分かるかな?
埋蔵金があると言って政権を取っておきながら、「ありませんでした テヘッ」とか平気で言うような無責任で無能でお花畑な理想論じゃないの。
少数野党だろうが、国会議員には「国政調査権」ってのがあって、それできっちりデータは得られるはずなの。
自衛隊の日報問題がそうだよね?
あれは日報の内容ではなく、国政調査権を持つ議員に対して、データを提供しなかった=文民統制ができてないってのが問題になったわけね。
だから私も日報問題では、防衛省の対応は支持してない。
たとえ敵国の工作員だったとしても、国会議員にしてしまったら洗いざらい情報は出さなきゃいけないのよ。
そういうのを当選させない、きっちり法に基づいて公安とかが事前に排除しなかった、職務怠慢なの。
だから後になって、下らない工作しないと機密が守れなくなるわけ。
そもそもね、何で具体的な政策とか出せないかって言うと、政治家としての思考ができてないから。
というか政治家以外の職種や人間でもそうだけどね。
何か「問題」があったら、まずその問題がどうして起きたのか、起きてるのかの「原因」を調査するわけ。
原因が分からなければ、対応のしようがないからね。
きっちり確実に原因を調査して、今度はそれに対して「じゃあどうしたら良いか?」ってのを考えるわけね。
この3つのプロセス(?)があって、初めて人は「進歩」できるわけ。
でも今の特に左翼とかいう連中は、この「問題」の部分で足踏みするわけよ。
「問題」を提起する事しかしないのね。
しかも無理やり作った中身の無い問題だから、原因も対策も出せないの。
そして自分たち自身がまったく「進歩」できないわけ。
「戦争はよくない」「二度と戦争はしてはならない」と言うなら、まずどうして戦争が起きるのか、何が原因なのか、そういうのをきっちり細かく分析すべきなわけよ。
そのうえで、それに対してどう対策するか、どう対応するかを考えて、予防線として実施する。
こうしてはじめて、日本は二度と戦争をしない国になれるわけ。
まぁ未来永劫そういう国であり続けるのは不可能だとは思うけどねw
この原因の調査・分析と、対策の考案を一切してないでしょ?
だから誰も支持してくれなくなったわけ。
面白半分に、いじめと同じ理屈で、ストレス解消のために「そーだそーだ」と賛同してくれてたのに気づかずに、それを続けてきた。
だから「いじめ」と同じように、国民が大人になってしまい、「お前ら、まだそんなつまんねーことやってんの?」って笑われるだけになったのね。
同窓会で、昔いじめてたやつらが大人になって謝ってきたり、気さくに普通に接してくれ、「ああ、みんな大人になったんだなぁ」と思ってたら、ガキのままのクズが居て「おい、昔みたいにこいつボコろうぜwww」とか言って一人で浮いてた。
いじめのリーダー格だったそいつが、同窓会ではみなからドン引きされ、批判され、同窓会から追い出されたって話がどっかのネットにあがってたけど、まさしくそれと同じ事が日本の左翼には起こってるわけよ。
「おい、安倍気に食わねーから、みんなで反対デモやろーぜwww」とか言っても、大人になった国民に「まだそんなつまない事してんの?」ってドン引きされ、白い目で見られ、誰も一緒にシュプレヒコールあげてくれなくなってるわけよ。
いい加減、大人になれよw
ってのが、NHKの夜のニュースの町の声(笑)とやらで見えたって話ですわ。
まず人間が言葉を覚える時にどーするか?
赤ん坊は両親の話す言葉を真似て、反応を観察する。
同時に両親がどういう時にその「言葉」を言うのかを覚える。
そして次第に「言葉」と「イメージ」の整合性が取れた「会話」ができるようになるだ。
同様に日本語をマスターした日本人が英語なりの外国の言葉を覚える場合、日本語-英語のセットで覚えのではなく、その英単語が、英語の文章が、どういった場面でどのように使われるのかの「イメージ」で覚えるべきなのだ。
日本語ー英語の「翻訳」作業を勉強させられるので、難しいしモノにならないのだ。
翻訳はそもそも両方の言葉がマスターできてから、本来はやるべき勉強だ。
子供が外国語を覚えるのが速いのは、頭が柔軟だからではない。
自分の母国語を覚えたやり方と同じく、「言葉」を「イメージ」で覚え、理解しようとするからだ。
ネイティブの会話を聞いて「イメージ」で覚えれば、わざわざ「文法」なんて覚えなくても話せるようになる。
日本人だって日本語の文法なんて知らなくても、会話できるし文章が書けるだろう。
主語だの述語だの動詞だの助詞だのって言葉の分類を知らなくても、あるいはある単語が動詞なのか形容詞なのか、過去形なのか未来系なのか、そんなもん知らなくなったって何の問題もない。
そんなもんは、言語学者とかにでもならないかぎりは不要だ。
そんな不要な事を無理に絡めるから、余計に難しく時間が掛かってしまう。
小さな子供に言葉を覚えさせる教材とか、単語と一緒に絵とかでそれが何を意味するのか書いてあったりするだろう。
もちろん日本語をこれ以上別の手段で説明できないからだが、英語も本来はそのように学習していくべきなのだ。
そしてやはりネイティブと日常一緒に生活して会話しないかぎり、覚えられないのだ。
辞書が無い時代でも、外国語を話せる人は居た。
例えば、そもそも学校なんぞ無かった時代の、単なる漁民が遭難して、たまたま流れ着いたアメリカでしばらく生活した事で、英語が話せるようになって帰ってきた話だってあるだろ?
外国語を話せるようになるのに、「辞書」なんて不要だという証拠だよ。
翻訳家でも育てたいなら、今のままの英語教育を続ければ良い。
だが、英語を「話せる」人を育てたいなら、根本的に外国語教育を日本は見直すべき。