恐らく海外にも同じような諺や既成概念があると思うが、二兎追うものは一兎も得ず とか 天は二物を与えず とかってのが、大谷選手には当てはまらないと思われている。
だからこそ、国内外で「スゲーwww」「化け物だ」「人間じゃねー」と言われるわけだ。
しかし実は別に大谷選手は「二兎を追ってる」わけでもなく、「二物」という異なる2つの天才的才能を持ってるわけじゃない。
これが「二刀流」という言葉によく現れている。
「二刀流」というのは、通常は一本の刀で戦うのを、二本の刀を持って戦うスタイルである。
武士は、欧米の騎士とは違って、基本的に「盾」は持たない。
攻撃も防御も、一本の刀で全て行う。
剣道とかやってた人なら、この概念が理解できると思う。
二刀流というのは、単純にこれを二本の刀で行うだけだ。
本物の日本刀というのは非常に重く、ゲームの世界で言えば「両手剣」の部類に入る。
だからこそ、攻撃力が高く、また盾を使わずとも敵の攻撃を受け止める事もできるわけだ。
しかし二刀流にした場合、通常より軽かったり短かったりする刀を使う事になる。
実は「剣道」もルール上は「二刀流」が認められており、実際に「二刀流」で戦う人も居る。
竹刀というのは、鉄製の刀に比べて圧倒的に軽いので、一本は一刀流で戦う最もポピュラーなスタイルで使われる竹刀と同じものが使われる。
が、二本目は長さが半分ぐらいの小さな竹刀を使うのが普通だ。
そして認められているスタイルにも関わらず、それを実際に使う人が少ないのは、二刀流にしたからといって「有利」になるわけではないからだ。
RPGゲームなどでもそうだろうが、二刀流にしたからといって攻撃力が2倍になったり、防御力が2倍になったりはしない。
むしろ生半可な腕で使えば、かえって攻撃力も防御力も落ちてしまい、「不利」になる。
大谷選手の二刀流というのは、バッターとピッチャーの「2つの異なる能力」が高いわけではない。
皆がバッター一筋、ピッチャー一筋でやってるのを、単にどっちも使う、つまり刀を二本使うだけで、やってる事はどちらも「野球」であるから、「二刀流」という言葉が使われるのだ。
二刀流と似て非なる言葉に「二足のワラジ」と言うのがあるだろうか。
もともと人間は二本の足で歩くわけで、従って履く靴=ワラジも二足なのは当たり前だが、この場合の二足は異なる靴という意味になる。
極端に言えば、右足はサラリーマンが履く革靴で、左足は女性がオシャレで履くハイヒールを履いて、それで歩くようなものだ。
不可能とは言わないが、めちゃくちゃ歩きにくいのは予想できるだろうw
大谷選手のプレイスタイルが「二足のワラジ」と言われないのは、こういった不可能な事を無理やりやろうとしているのではなく、単に人と違うやり方で「野球」をプレイしているだけという事からである。
最初に大谷選手のプレイスタイルを「二刀流」と名づけた人は、よく分かっていたと思う。
高校野球までは、それこそエースで4番なんて選手はいくらでも居る。
つまり不可能ではないのだ。
実際、大谷選手はバッターとしては「DH」であり、打席数は普通のピッチャー以外の守備をやってるバッターの人に比べて少ない。
高校野球のように、選手の体というか人間の体の限界も考えずに先発で9回フルに投げさせたうえに、4番バッターとして全ての打席にも立たせる、しかも何日も連続でという「アホ」な事をやってるわけじゃない。
むしろそれが出来るやつがプロで居たら、それこそ化け物だw
そもそも野球に関して2つ以上の才能を持った選手なんてのは、過去にも居るわけだ。
例えばイチローは、その打率の高さによるバッターとしての高評価と同時に、守備の評価も高い。
その俊足を生かした守備範囲の広さや、捕球の上手さ、そして「レーザービーム」と称される強力な肩による、正確で長距離の返球がある。
イチローが二刀流と呼ばれず、単に守備も上手い一流のバッターと呼ばれるのは、バッターというのは守備とバッティングと両方やるのが当たり前だからだ。
大谷選手が二刀流と呼ばれるのは、ピッチャーとバッターを両方やるのが当たり前ではない、珍しいプレイスタイルだからにすぎない。
しかしどちらも「野球」をやってるわけで。
そもそも人間の「能力」ってのは、ゲームのように単純化した名前を付けて、それを数値で表すなんて事はできない。
その状態で「天は二物を与えず」とか言われても、当てはまるはずが無いのである。
じゃあなにか、目が良い人は必ず耳が悪くなるのか?とか、勉強が出来るやつは必ずスポーツがダメになるのかっていうと、そうじゃないだろw
そもそも例えば打たれないすごいピッチャーに求められる能力ってのは、球の速さやコントロールの良さ、変化球にキレや球質の重さなど、多岐に渡るし、それらを実現するには、腕だけでなく頭も足も腰も、体全体の能力の高さが要求されるわけだ。
防御率が超低いエースや、打率が超高い、ホームラン数が超多いバッターというのは、もともと他の人に比べて複数の「能力」が高いからそうなれるのだ。
であれば、エースで4番みたいな選手がプロの世界に居ても、別に不思議ではないのだ。
天は二物を与えず というのは人間は複数の才能を持てないという意味ではなく、どんなすごい人にも必ず欠点や不得意な事があるというのが本当の意味なのだ。
とはいえ、大谷選手は「すごい」選手であるのは間違いない。
しかしそれは、ピッチャーとバッターという2つの異なる分野で一流だからではなく、ピッチャーやりながらバッターでも活躍するという、珍しいプレイスタイルで成功している、「どっちもできる」という才能ゆえに「すごい」のである。
ピッチャーとバッターという2つの異なる才能を持っているのではなく、ピッチャーもバッターもできるという「1つの」珍しい才能を持っていると考えるべきなのである。
これが大谷選手を二刀流と言うのが、ものすごく当てはまると思った所以である。
主に東洋の世界には、「輪廻転生」という「人は死んでもまた生まれ変わる」という考えがある。
もちろん科学的に証明された事ではないので、真実かどうかは分からない。
人間の本体・・・というかすべての生命の本体である「魂」というのは、永遠の存在であり、肉体が死滅してもまた別の肉体に転生して、人生を繰り返すみたいな考えだ。
さて、スピリチュアルの世界の人は、この「転生」という行為は「魂の修行のためである」と説く人が多い。
だが私は違うと思うw
人間として生きれば、どんなに恵まれた人生を送っても、痛かったり苦しかったり辛かったりする経験は少なからずするものだ。
それらが、魂にとっても同様に「苦痛」をもたらす「負」の感情であると考える事が、そもそも間違っていると思うのだ。
人間はなぜ「ホラー映画」とか見るのか?
人生と違って、ホラー映画を見るか見ないかは自分の意思で、完璧に選択できるし避ける事も可能だ。
にも関わらず、「怖い」という負の感情を引き起こす事を目的に作られた「娯楽」が存在する。
そしてそれらを多くの人が見る。
おかしくないか?w
私は「負の感情」と言われているものは、実は料理の味に例えれば「辛い」とか「苦い」とかと同じだと思っている。
漢字も同じだしねw
辛い料理や苦い味は、感情とは違って「おいしさ」のひとつとして考えられている。
つまり感情というのは、料理の味と同じで、好き嫌いこそあれ、それらは良い悪い、正負で区別するのは間違いなのだ。
甘い物が好きな人でも、そればっかり食ってたら、飽きる。
同様に、「喜び」や「幸せ」や「快感」とかも、そればっか味わってたら飽きるし、薄れてくるわけだ。
人(の魂)は自ら望んで、その家庭に産まれてくると言われている。
なぜ障害児になったり、虐待で殺されるような危険のあるクズ親の元にも望んで産まれるのか?という疑問に対して、「魂の修行」だからと言われると、なんとなく納得してしまう。
でも違う。
実際は、辛い物が好物な人が居る、ホラー映画が好きな人が居るように、「負の感情」と言われているものを、より多く味わえる人生の方が好きな魂も居るという事だw
魂の状態ではなく、肉体に宿った生きた「人間」状態でも、「マゾ」という言葉があるように、痛かったり辛かったりする事が好きな人も居るわけでw
つまりもし本当に、永遠の存在である「魂」という人の意識や本体があったとして、それらが前世・現世・来世と言われるような「転生」を繰り返しているのだとしたら、それは「修行」ではなく、単なる日々の「食事」や「娯楽」に過ぎない可能性の方が高いと私は考えるのだ。
「食事」はそれでも生きるために必須の行為であるから、「意味」はあるが、「娯楽」に関しては特に「意味」は無いだろう。
つまり「転生」に「意味」を求める事自体が間違いなのだ。
ただ別に「修行」という「意味」を説く事自体は否定しない。
「宗教」というのは、もともとは自らを戒めて、よりよい生活や人生を、より多くの人が送れるように生まれたものだからだ。
小さな子供が、お母さんに「好き嫌いしないで食べなさい」と言ってるようなものなのだ。
負の感情というのは、それはあくまで「肉体」にとっての話でしかない。
「魂」というものがあるとしたら、それにとっては「負の感情」というのは「辛い食べ物」や「ホラー映画」と同じでしかない。
もっとも、「魂」なんてものは存在しない、「意識」なんてものは幻想であって、人間は死んだらそれでおしまいというのが真実であれば、「肉体」が拒絶する「負の感情」は避けるべき事である。
健康に長生きするためには、それらは極力経験しないに越した事はない。
でもスピリチュアルな観点から見れば、それらは別に無理に忌避するものではない。
マゾという性癖(?)も、別におかしな事ではなくなる。
単に辛いものが好きとか、ホラー映画が好きってのと同じなだけなのだから。
内戦が続く危険な国や、貧困にあえぐ国に自ら望んで産まれてくる「魂」があっても、何ら不思議はない。
ちなみに私は、魂が人間をはじめとした様々な生物に宿るのは、単なる「娯楽」であると思っている。
人生劇場を自ら演じて体験する事を、単に楽しんでいるだけだと思っている。
なぜなら、魂とか幽霊の状態で、他人のソレを見るより、遥かに楽しめるからだ。
音楽が好きな人が、自らも作曲したい、演奏したいと思ったり、演劇の好きな人が見るだけでは飽きたらず、自らも演じてみたいと思うのと同じ事だ。
私はこれが「輪廻転生」の真実だと考える。
ここ最近、朝日もびっくりの偏向反日っぷりの筆頭に上がるNHKだが、実は昭和の時代から反日国家中国とズブズブだった。
NHKの有名な昭和の時代のドキュメンタリー大作に「シルクロード」がある。
シルクロードの大半は中国領であり、しかもあの時代はまだ米ソの冷戦真っ只中で、西側陣営の主要国と言っても過言ではない日本の、しかも半国営放送(NHKは税金が投入されてたり、法律で民放より優遇されているから)のNHKが取材を許可される事自体が、あり得ない異常な出来事であった。
三国志や西遊記など、中国発の物語も、その知名度アップやブームの火付け役となったとは、すべてNHKだ。
このように昔から、独裁国家の手先であったNHKだが、最近はそれを隠そうともしなくなってきたという感じだ。
ここ最近、民間企業の宣伝は一切せず、宣伝でなくとも民間企業名は一切出さない、モザイクかけたり、大手○○企業みたいに名前をあえて明かさない事をずーっと貫いてきたわけだが、なぜか「イオン」だけは名前を堂々と出す。
それもイオンがセールを開始しましたとか、明らかにそれニュースじゃなくて宣伝だよね?ってのまで堂々とやってる。
イオンといえば、民主党の岡田の親族企業だ。
民主党と言えば、その政権時代に日本の領海を侵犯し、あまつさえ海保の巡視艇に体当たりまでしてきた犯罪者である中国人船長を、圧力を掛けて無罪放免させた、バリバリの独裁国家中国の手先政党だ。
おとといだか昨日だかも、イオンが中国で新しい店をオープンしたんだか好調なんだか、そんなのをニュースで流していた。
中国から日本企業や日本資本の撤退が相次いでいる事に対して、それを止めようとする中国からの指令で、いかにも中国が今あつい!みたいな事をあからさまに印象操作するためなのが、ミエミエである。
そもそもシルクロードだの三国志だの西遊記だのも、日本人に中国に対する敵対心を抱かせない、中国に対する印象を良くしようという意図があるわけで。
あからさまに中国の一党独裁政治体制を賞賛して、中国は本当はアメリカが言うような悪い国ではなく、いい国なんですよーってのは出来ないので、その豊かな歴史文化を宣伝する事で、印象操作しようとしたわけだ。
昭和のテレビや新聞しか情報源が無い時代は、それで上手くいっていた。
ところがインターネットなるものが登場してから、テレビや新聞の影響力がガクっと落ち、世論操作・印象操作が効かなくなってきた。
ここ最近のマスメディアのなりふりかまわぬ反日工作っぷりは、彼らがそれだけ焦っている事の証拠である。
役に立たない工作期間に金を出すほど、中国は甘くない。
敵対国家の人間や組織を国内に存在させて、自由行動させるばかりか、補助金とかの名目でお金まで上げちゃうアホな日本政府とは違う。
つまりこのままでは、中国様からの援助が無くなってしまうから、あせっているのだ。
実際、おそらく援助を減らされてるか、尻を今まで以上に叩かれてるかしてると思う。
反日とか反中とか反韓とか、そういうのがまったく無い、どーでもいい人から見ても、最近のマスゴミの偏向っぷりは異常だし、反日野党の言動も異常だと思われ始めている。
その証拠が、安倍政権の支持率が危険水域にまでいくらやっても落ちないうえに、反日野党の支持率がまったく上がらないどころか一緒になって落ちてる、もはや自民党とまともに対峙できないレベルにまで。
それでもなお、国政そっちのけで、下らないパフォーマンスばかりやってるのは、刺し違えてでも安倍政権を倒さないと、自分らの命が危ないところまで追い詰められてるのだろうw
妄想だと言うなら、NHKはなぜ「イオン」だけ特別扱いして宣伝するのか、納得いく理由をお聞かせ願いたい。
「イオン」は確かに日本国内の小売業では大手だし、誰でも名前は知ってる企業かも知れないが、日本を代表する企業として名が挙がるほどではない。
日本人に聞いても、外国人に聞いても、日本を代表する企業の名前として上がるのはトヨタやソニーだ。
それらの企業の動向を、日本経済というみなに影響のあるニュースだからと、伝えるならまだ分かる。
トヨタやソニーの企業目が実名出るようなニュースは、これらの企業が何か不祥事や、赤字になりましたみたいな失敗をした時だけだw
中国か、イオンか、どちらがどちらを利用しているのか知らないが、少なくともNHKに対して多大な影響力があるのは確かだw
他人や他国の力を借りて、なし得た事ってのは、良い結果は生まない。
それは歴史が証明しているし、よほどの馬鹿でなければ、自分の人生でそれは学んでいるはずだ。
いい加減に目を覚ませ。
やはり見もせずに、ネット上の評価だけで論じるのは間違っている
と題名のような思いに至りました。
すいません、ぶっちゃけ1期と並ぶぐらい面白かったです。
原作にどの程度忠実なのか知りませんが、少なくともパワーは落ちたとは感じられないし、確かにハーレム恋愛ものっぽさが濃くはなってきましたが、それでもひねくれた青春物語というこの作品の一番の魅力に沿った進行で、不自然さや作風が変わったという印象も受けませんでした。
ただ、やはり別に無理に三角関係を作らなくても、あるいはそれらに決着を付けようと試行錯誤しなくても、もっと気楽に単なる高校生のちょっと変わった日常物語で良いとは思いましたね。
はっきり言ってしまえば、3人とも大人になって、まったく関係のない人と結婚しました。
だけど今でもたまに会って、楽しくお話するぐらい仲は続いていますみたいなエピローグの終わり方でも、良いと思いますよ。
そもそもね、男女間の恋愛だの何だのの話で言えば、1人を選ばなきゃいけないなんて事はないのですよ。
一夫多妻制や多夫一妻制が、法的に認められてる国だって世界にはあるわけで、何も架空の話である小説にまで、現実の日本の法律を元に形成されている価値観に、準拠する必要はないのですよ。
そう、必ず男と女が1:1でくっ付かなければならないなんて、物理法則は無いのです。
それはあくまで現代日本において、法律がそうなっているってだけの話なのですよ。
現実や既成概念に捕らわれない、そういう物語や世界を描きたいなら、まずこの男女1:1に最終的には収まらなければならないという、そういうのを作家・漫画家などはもっと認識してぶっこわすべきです。
ヒーローとヒロインは必ずくっ付かなければならない、ヒロインが複数居たら、最後は誰か一人を必ず選ばなければならない。
そういう既成概念に捕らわれるべきではないと思いますね。
たぶんそこが、2期あるいは2期分の原作が気に入らない人達の、一番のポイントなのではないかと思いますわ。
「こんなんアニメか漫画かラノベでしかありえねーwww」ってのは、小町という可愛い妹が居るという部分だけで十分ですw
ちなみに私はロリコンなので、俺ガイルで一番好きなのは、小町ちゃんですw
次点でいろはすですかねw
でもメインヒロインである、結衣ちゃんもゆきのんも好きですけどねw
まぁでも現実世界に、性別を超えた友情とか親友って、ほぼ無いと言い切っても良いほどですよねー。
少なくとも私の経験ではw
かつて通った事のある、ホームヘルパーの資格を取るための講座の講師が言っていたんですが、そのおばちゃんの息子さんは、いわゆる幼馴染と結婚したそうです。
もうほんと、家も近所で幼少の頃から一緒で、ほとんど兄妹みたいな関係だったのに、結婚するってなって驚いたらしいですw
そんぐらい、男女間での付き合いに、恋愛感情がまったく芽生えない仲良しなんて、無いって事なのかなぁと思ったわけですよ。
それは人間も生物である以上は、仕方ない事でしょうね。
人間が、性別が無くて細胞分裂で増えるような生き物だったら、また違ったのでしょうがw
とにかく、誰もがハッピーになる物語を書きたいなら、最初からヒロインを複数出すとか、そういう売れるための小細工は止める事です。
エロゲーみたいに、ハーレムエンドとかにするなら話は別ですけどねw
そうじゃないなら、どのヒロインとくっ付いても、選ばれなかったヒロインはバッドエンドなわけですよ。
あるいはどのヒロインともくっつかず、ハーレム状態という夢のような世界を維持したまま終わらせても、中途半端だと読者に批判されるだけですからねぇ。
とにかく3期もあったら、今度はちゃんとリアルタイムで見ようと思える出来でした。
作者の方には是非とも、これからもがんばって欲しいですという話。
「俺ガイル」とは、「ソノックブーム」とか玄関の前にしゃがみ小キックを連打してるガイルが居て外に出られないというネタで有名な、ストリートファイターⅡ(通称 スト2)のアメリカ代表のガイルの事ではない。
やはり俺の青春ラブコメはまちがっている という糞長い題名のライトノベルの略称だ。
さてこの「俺ガイル」であるが、アニメ第一期及びそれに相当する原作は、非常に高い評価を受けた。
にも関わらず、第二期や第二期に相当する原作は、非常に叩かれている。
理由は初期の頃の、ひねくれた高校生のひねくれた日常物語から、ラノベ特有のハーレム恋愛ものになってしまったからだと言われている。
聞くところによると、アニメ第一期が終わった頃から第二期及びそれに相当する原作が出るまでに、相当な期間、作者がスランプにあって物語の続きが長らく書けなかったというのがあるらしい。
そりゃそうだ。
あんなすごい名言やネタ満載の物語なんて、そうポンポン書けるもんじゃない。
アニメ化までされ、予想以上の人気が出てしまった事によるプレッシャーもあったであろう。
さて、俺ガイルの第一期のアニメしか見てない私だが、本当にアレは名作だった。
変にイケメンな主人公にせず、ヒロイン達はまぁアニメのキャラクターデザインには独特の雰囲気があって、かわいくないわけじゃないが、賛否両論あったりもした。
だからこそだろうが、「文章」で書かれた物語そのものの「面白さ」が非常に際立ち、異色の名作として非常に高い評価をされるに至った。
世の中を斜に見るひねくれ者というのは、リアルでもそれなりに居るが、あそこまでひねくれてる主人公は、今まで見た事が無く、非常に新鮮だった。
私も幼少の頃から「ひねくれている」と良く言われてきたが、そのリアルひねくれ者の私から見ても、かなりすごい。
「ひねくれもの」というのは、よく言えば、他の人と違ったモノの見方をする、できる人のことでもある。
よって、芸能分野では大いに成功する可能性が高い。
例えば、お笑いなんかそうだろう。
唐突に、本当に面白い事が言える、できる人ってのは大抵は「ひねくれもの」が多い。
他の人と違ったモノの見方や考え方ができるからこそ、それが人々を笑わせたり「面白い」と思わせられるのだ。
また小説や漫画などの創作も、他の人が思いつかないような物語が書けるからこそ、売れるわけだ。
この「誰にも思いつかない」ような発想に基づく、台詞や推理小説で言えばトリックの部分が、非常に素晴らしかったのがアニメ第一期の「俺ガイル」なのだ。
昨今の漫画とかに多い、物理法則や設定を無視した力業で問題を解決する事を一切しなかった。
「その発想は無かったわ」と関心し、同時に笑える問題解決を行ってきた。
しかもそれが、わりと現実でもできそうな、無理のないリアルさがあったりしたのも良かったw
私はこれを見て、この原作者は相当に頭が良い人だと感じた。
頭が良いと言うと、すぐに東大に現役で合格できるような、いわゆるお勉強が良くできる、記憶力の良い人や理解力のある人などを思い浮かべがちだが、ここで言う頭の良い人というのは、「頭の回転が速い人」という意味だ。
頭の回転が速い人の例としては、松本人志なんかがリアルではあげられる。
「えー?」と思う人も居るだろうが、とある番組のMCの時のしゃべりで、「ああ、こいつは頭の回転が速いなぁ」と強く思った事があるからだ。
明石屋さんまなんかも、割と頭の回転が速いと思う。
つまり咄嗟に、普通はそういう発想や答えは出てこないという、返しやネタ振りや突っ込みやボケができる人の事だ。
笑う以前に、あるいは笑うと同時に感心してしまうような事を言える人、「上手いなぁ」みたいなね。
「俺ガイル」の原作者は、そういう人なのだろうと強く感じた。
ところが、こういう人というのは、往々にして「面白い事を言おう」と考え込んでしまうと、「面白い事」は言えなくなってしまう。
それが第二期以降に評価がガクっと落ちた要因だと思う。
最初の頃のように、思いついた事をそのまま書きたいように書けば良いのだ。
他人の評価なんて、気にする必要はない。
そもそもこの主人公を通して自分を表現している作者自身が、そういう「他人の目を気にして生きる」事を嫌っていたはずではないのか?
アニメ第一期までは、主人公の比企谷本人が書いたものだとすると、第二期はヒロインの一人である由比ヶ浜が書いたものになってしまったと見受けられる。
他人の目を異常なまでに気にして、なるべく他人と合わせ、目立たないように生きる、いわゆるキョロ充と言われる、日本人に最も多いタイプの代表格として描かれていたのが、由比ヶ浜結衣である。
あと日本人ってのは、「こうして主人公とヒロインは結婚し、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」で終わらないと納得しない風潮がある。
だから物語を完結させるために、無理にラブコメに持っていったのかも知れない。
しかしそれは気にしすぎである。
「俺たちのひねくれた日常はまだまだ続く」「渡 先生の次回作にご期待下さい」みたいな、打ち切りとも思える終わり方でも、私は良いと思うし、それこそこの作品らしい終わり方ではなかろうかw
人の性格や価値観というのは、そうそう簡単に変わるものではないが、とはいえ孤独なボッチが、変にリア充になってしまったり、普通にそれなりの人付き合いや社会に溶け込んで、それなりの生活を送れるようになってしまうと、「ひねくれた」考えそのものを、する機会が無くなってしまう。
ソースは俺。
原作者は会社員をやりながら、ラノベ作家活動をしているようだが、そのプロフィールを見て、そう思った。
こういう「ひねくれ」た人は、無理やり社会や集団の中に溶け込まないといけない事態になると、実は割りと「面白い奴」として人気が出てしまう事がある。
リア充を憎み、否定しつつも実はわずかな憧れがあったりするので、そのなんちゃってリア充生活を受け入れてしまうのだ。
それが、独特の感性を鈍らせてしまう。
というわけで、会社員なんて辞めて、作家業一筋の生活をした方が、もっと面白い作品を書き続けられると、おせっかいながら思う。
作家になれば、会社員より人付き合いは減るし、一人で居る孤独な時間も増える。
ひねくれた、「世の中クソだ」という思いも高まるw
ソースは俺。